学者にしても報道関係者にしても、肩書と実名を名乗った上で語っている場合は、それが講談の場でもテレビでもウェブサイト上でもツイッター上でも、その履歴・肩書を有した人物による発言として責を負うのですよね。「個人としての発言」との断りをしておいても無意味です。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 7月 13
Facebookではある程度強い実名とその背景にあるもののリンクが強く、業界懇談会のような感じでのやり取りがなされるのであまり心配はいらないのだけど(その分、思惑が強く絡んで、カルト的なグループが出来ることがある)、ツイッターでは入力が容易にできること、チャットのような表示スタイルであることから、家族での食卓の会話、あるいは居酒屋での酒を飲んだ上での戯言のようなイメージでツイートをする雰囲気が多分にある。
第三者がどのように受け止めようとかまわないってのならそれでも良いのだけど、ツイッター上でのツイートは鍵をかけた閉鎖スタイルでの発言でない限りは、不特定多数に向けた情報発信と同じ。そのようなスタイルの中で、実名と肩書を掲げている以上、発言内容と肩書などのバックボーンは強力にリンクされてしまう。ご近所のおばさんとの何気ない雑談のつもりでも、全世界に向けた宣言と同じ。ただそれを他人が耳にするかしないか、それは他人が決めることだけの違いでしかない。
しかもプロフィールなどに肩書を記録している場合、その雑談ですら、正装をして自分の名前と肩書を記したネームプレートをつけて発言しているのと同じになる。
もし「個人としての発言」がしたければ、肩書を外した別の「人格」を形成し、そこで発言をすれば良いまでのこと。ツイッターならば別アカウントってやつ。あるいは一発言に付き随時「個人的見解として」を加えるべきかな、と。そうでない限り、「個人としての発言」と「肩書を持つ人物の発言」が混ぜられてしまう。
ずらりと並ぶツイートにおいて、これは個人的発言だから肩書も専門知識も権威も関係ない、これは自分の肩書を背景にして発言したものだからみなさんよろしくね、ではあまりにも調子が良すぎる。普段は肩書を持つ人物として色々と接したりアピールをしたり専門知識を披露し背景を活用し、いざ何か問題が生じたら「個人としての発言」だから責任は負わない。それではイソップ寓話の「ひきょうなコウモリ」と同じ。
そもそも「個人としての発言」をしたいとプロフィールに書き連ねるならば、なぜさまざまな権威を持つ肩書までアピールする必要があるのだろうか。「とあるおっさん」でもいいし「埼玉県の一会社員」でもいい、固定的な存在として認識するのを望むなら「ラーメン好きな埼玉のナルトマン」といった類のハンドルネームでもかまわない。
だからこそ、「匿名別アカ」は必須だと思うんだけど、匿名別アカにすると「今まで築き上げてきた信用(相手に無条件の信用を強いる魔法)が使えなくなる」から、言い分を通したいが故に肩書きを手放せない、というヽ(´∇`)ノ https://t.co/JqphtOqV5Q
— 入門者のための実話怪談【怪決】加藤アズキ (@azukiglg) 2015, 7月 13
恐らくはこの辺りが図星なのだろう。自分に有意な観点では、肩書や経歴を使いたい。けれどマイナス部分は甘受したくない。美味しいごちそうは食べたいけれど、お題は払いたくないとか、ダイエットで体重を落としたいけれど、一日三度のおやつと各食事でのご飯大盛りお代わり三倍は止めたくない、みたいな。
専門家や報道関係者では特に、この類の残念パターンを多く見受けられるのは、元々地の部分に存在していたものを露呈しただけ......というよりは、対外的コミュニケーションにおける仕切り、境目の認識が上手くできていないのだろう(慣れていない)。「個人の発言です」と一言添えておけば、それが実際には公的な場での不特定多数への第三者に対する公知であるにも関わらず、本当の意味での独り言と同じように扱ってもらえる「はずだ」との誤認があるんだろうな。
この観点では、大人、特に世間一般には「えらいひと」と思われている肩書を持つ人にこそ、ネットリテラシーを学んでもらう必要があるのかもしれない。
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