しかし、翻訳というのは、当該テーマに関する知識から、外国語読解能力、さらには日本語の表現力までも試されてしまうのに、報われるところは少ないから、現状では、やるほうがバッカじゃねえの、てなところはある。じゃあ、お前、なんでやってるのいわれると、好きな分野の本だから(苦笑)。
— 赤城毅 (@akagitsuyoshi) 2015, 7月 12
ただ、その、外国語が読めるか、日本語で表現できるかというのが、きりきり試される快感というのはありますね。機能快というのか、自分の言語能力をフルに使うのはいい気持です。ただし、大急ぎで付け加えておくと、私の翻訳がうまくいっていると称しているわけではありません(ホントよ)。
— 赤城毅 (@akagitsuyoshi) 2015, 7月 12
指摘されてみれば確かに、様々な名著が日本語化されて出版されているけれど、知られているのはその内容そのものや日本語訳された時のタイトル、そして原作者の名前であり、翻訳家の名前まで浸透するってのはあまりない。日本語の作品なら翻訳家は不必要なので作者の名前がそのまま記憶に残るけどね。
一方で翻訳家自身の苦労を思い返してみると、指摘の通り該当言語の豊富な知識はもちろんのこと、対象となる作品に係わる深い造詣が欠かせない。専門用語の類や独自の言い回しを該当言語の上で知っておかないと、直訳したけれど意味が分からない文章が出来上がる。
さらに専門的な用語に関して、日本語に合致する用語を見つけねばならないし、場合によっては適切な言い回しを独自で創らねばならないこともある。海外の表現では存在するけれど、日本には無い、あるいは日本では意味が分からなくなる表現の場合、近しいものを探して意訳する必要も出てくる。多少語弊はあるかもしれないけれど、遺跡で発掘された古代遺跡の石版、あるいは敵の暗号文を解析するようなもの。そして昨今では特に、翻訳への対価も落ちていることから、報われない......と嘆くのも仕方がない。
一方で、仕事の上だけで考えても、関連分野の認識、知識、情報を日本国内に広めるきっかけにはなる。自分の能力をフル回転させること自体が楽しいとあるけれど、それも理解できる。また他人が知らない情報を自分が取得し、満足し、アドバンテージを得る事も出来る(研究論文を原文で読むってのはこの部分が大きいかな)。
もう少し自動翻訳の精度が上がれば、翻訳サイドの苦労も少しは減るかもしれないし、文化の衝突もほんの少しは少なくなるかな......と思ったけれど、互いの文化を深く知り、意思疎通が容易になると、それはそれで新たな対立などが発生するかもしれない(汗)。まぁ、知識を得るための場が広くなることは有意義なことではあるし、近い現象がすでに動画共有サイトで起きているからなあ。
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