一般の人々の意見を正しいとして主張する報道に関する素朴な疑問

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これは以前からぼんやりとした形で頭に登っていたのだけど、体現化している言い回しが複数見つかったので、良い機会でもあるということで、覚え書き。テレビのワイドショー番組でよくある、名前そのものは知られているけれど、見識はからきしな人や、特定分野の専門家として知られているけれど、万能な人では無く、他分野では素人と変わらない人にコメントを語らせて、それが正論・事実・正しいことのような認識をさせたり、街頭インタビューで何人かの人に問い合わせをした場面を映し出して、それが世間全般の意見であり、正しいものであるかのような伝え方をしたり。

上の指摘では「アマチュアは間違える」「アマチュアは誘導に乗りやすいので、報じる側の意図にそった『不特定多数の想い』を語りやすい」とあるけれど、さらに「報じる側の取捨選択」の可能性って問題もある。以前も触れたけれど、黒と白の半々の碁石の山から黒だけを取り出し、他人に「黒しか入ってないよ」と披露した場合、見せられた人は本当に黒だけだと誤認してしまう可能性がある。報道ならば多数の取材素材から、番組構成に都合の良い意見のみを抽出することも否定できまい。

街角インタビューはサンプルには違いないけれど、その語る内容が正しいか否かは別の問題であるし、その内容が世間一般の多数意見であるとも判断ができない。と、なるとそれらの類を報道素材として使うのは、多分に報道側の演出によるもので、報道そのものの意味・価値は極めて薄いことになる。


ほぼ同時期にこんな指摘もあった。指摘の方向性はほぼ同じで、報道として意味の無い内容を流して、何が楽しいのかというもの。無論これまでもワイドショー的な番組でコメンテイターの語りがセットになるってのはあったと思うのだけど(いつからだろう、そういや確かに)、多用されるようになったは、以前から何度となく触れている「プレスとオピニオンをごちゃ混ぜにした」時期、ニュースステーションの登場とヒットがきっかけな気がする。

視聴者側は一体感を覚えるような感じになる(専門家の、見方によっては上から目線的なものではなく、近しい立場からの意見)し、報じる側はいくらでも事実・正しいことと思わせる内容を左右できる。報道のように見せた劇場劇を自分のシナリオで報じ、世の中のかじ取りを取っているかのようになれる。そりゃ、報道側の権威が絶大なものとなったと誤認してしまうのも無理はない。たとえはアレだけど、スピーカーが意志を持って内容を自在に差し換えるような感じ。


上記意見のレスポンスにもほぼ同じ指摘があった。やっぱりそうなのかな。

そして昔ならそれでも通用したかもしれないけれど、今は不特定多数が検証と情報発信ができる時代。報道のいびつさが目立ちつつあるのも、やはり環境変化に合わせたアップデートが上手く行われていない、良く使われる(悪い意味での)既得権益にしがみついている部分があるんだろうな。

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このページは、不破雷蔵が2015年7月19日 08:02に書いた記事です。

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