「キャラクターイラスト」と呼ばれているものが、なぜ「大学」や「美術」とそぐわないものに感じられるのか?から考えてほしいと思います。逆に、いまのpixivのような表現空間から、旧来的な「美術」がいかに疎外されているか。それはなぜか。
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— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
ぶっちゃけると漫画だろうとキャラクターイラストだろうと絵画だろうと浮世絵であろうと、絵には違いないのだけれど、ここ数十年の間に成長した分野であるキャラクターイラストや漫画などは、古くから存在して権威あるものとは仕切り分けがされていることが多い。ある意味では冷遇されている。ゲームというジャンルで仕切れば全部同じなのに、囲碁や将棋はむしろ称賛される部分もあるのに、ネットゲームなどは退廃的なものとして見られることが多い。まぁ、平均的な注力度の違いもあるのだけど(でも例えば将棋のプロにおける集中度は並大抵のものじゃないから、要は特定のラインを超えるためのハードルが低いって話なだけなんだよね)。
どちらも「絵」と呼ばれる、視覚表現であることには変わりがありません。しかし、「キャラクターイラスト」は、「マンガ」よりもさらに「学校」や「教育」の外にあるものと感じられている。
しかし、すでに2000年より中学・高校の美術科の指導要領には、「漫画」が加えられています。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
「美術」は、日本の近代化とともに、学校や美術館といった制度の整備とともに権威化を図りました。学校での美術教育は、個人の感性を重んじ、様式的な表現を排除する方向に進んできました。マンガについては、なぜか「様式」という語が用いられることが少ないのですが、様式性の高い表現です。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
様式性の高さ、という意味では、いわゆる「キャラクターイラスト」もそう言えるとおもいます。また、線画・輪郭を基調とする表現であること、物語的な連続性を孕むことなども、モダニズム絵画とは対極にあるもののように考えられる理由になるでしょう。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
大学でのマンガ教育や、「キャラクターイラスト」(←これについても、もっと適切な呼び名があっていいと思いますが、便宜上これで行きます)が大学教育の場に取り込まれることは、ひとつには「美術」が美術として自律化し権威化したことへの美術の側の自省があるでしょう。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
「マンガとか、キャラクターイラストとかを大学で教えるなんて」と思ったら、すかさず「じゃあ美術って何さ?」と問い直してほしいのです。「大学で教えるなんて」という印象には、かならず「大学で教えるべきもの」が前提になっているはずです。ではそれは何で、どういう根拠を持つものなのか。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
日本の美術教育は、世界的にみて普遍的なものとはいえません。
技術をほぼ教えず、感性とオリジナリティを重んじる、情操教育に終始するものです。図工・美術の時間は、絵を描くことに関心のある子にはたのしい授業ですが、そうでない子には、ひたすら退屈な時間としてあります。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
あるいは、「かっこいい絵」「きれいな絵」「うまい絵」を描きたいと思っても、それが美術・図工の時間ではかなえられなかった記憶を持っている方も多いのではないでしょうか。そうした学校教育を通じて、私たちの「美術」観が培われてきたこともまた、言を俟たないのではないかと思います。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
@GoITO 小学校の時、マンガ・アニメのキャラクターそのものは言うまでもなく、「そういう描き方」さえ、強くではありませんでしたが、否定されたことを思い出します。その数年後、中学校に入ると、教科書と参考書に「マンガの表現方法」とか言って項目が増えたわけですがw
— こんぽた (@cornpt) 2015, 7月 17
いま、中学・高校の美術の時間で、マンガを積極的に取り入れていこうという先生は、少数ながらあらわれはじめています。しかし、その一方で「キャラ絵」を授業中に描いたら「殴る」と言った先生もいる。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
個人的には、図工・美術の時間では、キャラ絵やマンガも含めて、いろんなことをやってほしいと思っています。ただ、キャラ絵を描かせるのならば描かせるで、それがどのような表現であり、様式であるのかを理解したうえで指導してほしいと思います。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
また他方、キャラクターイラストのような「絵」の、いわゆる「画力」に対して、職人的なもの、工芸的な技能のようなものとして、一段下に見る気風も、美術の世界にはあるという話も目にしています。石岡良治さんの「サイゾー」記事内のコメントだったと思います。今年頭のマンガ特集号ですね。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
同じ記事で私もコメントしているのですが。
それはそれとして、いま、大学をはじめとした「教育」や「美術館」などの制度的な美術の内部に、マンガなどのキャラクター表現が入ってきていることは、まさに皆が所与のものとしている「美術」という枠組みを再考する機会となるべきだと考えています。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
ここで、いわゆる「キャラクターイラスト」と呼んでいるのは、萌えキャラなどを中核に置き、多くはデジタルで作画され、線遠近法的な空間をパッチワークしたり、逆にフラットな画面を作っていたり、というものです。
明らかに様式的な特徴を有していますが、それはまだ十分に言語化されていません。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
pixivのデイリーランキングと、TINAMIの総合スコアランキングを置いておきます。こういった「絵」を描くひとが百万を超える数でいて、お互いに技術を教えあうような回路がすでにできている。
http://t.co/iVgLaH200d
http://t.co/IpUuI85ikA
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
オーセンティックな「美術」も「デザイン」も、ここからは疎外されている。しかし、これほど多くの人が「絵」を描き、他者に見せるという社会は、おそらく有史以来のことでしょう。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
このような見方をとると、現在進行していることは、「描く人々」から疎外された「美術」が、なんとかして自らをそこに参入せしめようとしている...という解釈も可能となります。
たとえば、いま国立新美術館で開催されている展示は、「ニッポンのマンガ・アニメ・ゲーム展」ですよね。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
個人的な見解ですが、こうした「キャラクターイラスト」の感触に最も近いのは、異端の日本画家・田中一村です。わたしが奄美大島の田中一村美術館に三回も行っているのは、この関心からです。
https://t.co/vvapYvMIdf
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
言われてみて「はっ、なるほどそうだ」と思いました。
ただ被写体が工場や団地というだけでなく、撮り方等も含めてということですね。
https://t.co/6JQJN2evZm
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
それも「なるほど」です。そういえば、写真学科の先生が「撮り鉄の子は毎年一定数いる」と仰ってたような。
https://t.co/HM9ctfZIwt
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
伊藤剛さんのツイートのおかげで「写真の歴史におけるアマチュアリズムとはなにか。そしてどのように『美術写真』と区別されてきたか」を考え始めてしまった。しかしこんな時間なので寝る。寝れるかな。のうみそがくるくるしてるぞ。
— 大山顕・新刊ショッピングモールから考える (@sohsai) 2015, 7月 17
伊藤剛さんのこの辺りのツイート見てふと思った感じ。
例えばグラフィックデザインみたいな体系がイラストにもあってきちんと学べれば、コンテンツ自体の質ももっと上がる気がしていたりする。
— 山口瑞樹 (@name_tan) 2015, 7月 17
「イラストレーター」という職業が自律したのが日本では1960年代らしいという話もあり、あとは広告ビジュアルの歴史等も参照する必要がありますね。
(前からやろうやろうと思って手をつけられていないことのひとつ)
https://t.co/7N1qL9iGtb
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
「イラストレーター」という職業が自律したのが日本では1960年代らしいという話もあり、あとは広告ビジュアルの歴史等も参照する必要がありますね。
(前からやろうやろうと思って手をつけられていないことのひとつ)
https://t.co/7N1qL9iGtb
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 7月 17
漫画なりキャラクターイラストにおいて、学術的な権威立てが少ない、無いに等しく、子供の遊び的認識が成されているのは、その方面での論理体系化がほとんどないのが一因ではないかな。裏付けされる研究論文的なものが無いので、個々の語り、意見で終わってしまう。だから本当は、傍から見れば変なもの、意味が無いモノ、当たり前のものと思われるものであっても、その時点では採算が取れないと言われても良いので、権威付けのための土台が必要。ある意味、例の国立メディア芸術総合センターがその一環となる可能性は十分にあったのだけどね。あの時、どんな揶揄がどのような筋からなされたかを思い起こせば、キャラクターイラストやら漫画やらアニメの今のポジションからのシフトを嫌う人たちの想いが、ある程度分かるはず。
「「大学で教えるなんて」という印象には、かならず「大学で教えるべきもの」が前提になっているはず」この指摘は非常に重要。恐らくはその考え直しの時点で、語り手側は自分の奥底に持つ偏見に気が付くはず。気が付かなければ、それまでの質しか持ち得ていない人物だった、というまでの話。
後半のpixivのランキングの話を読むに、結局デジタル化とネットの普及が、キャラクターイラストやら漫画やらの世界の可能性をグンと広げて化学反応的なものを引き起こして拡大化しているのだろうし、相性が元々よかったんだろうな、という感はある。そして権威云々って話もあるけど、先日流行りを見せた鳥獣戯画のコラージュツールでの作品を見ても、結局美術やこれまでの絵画などと真髄の部分に大きな違いは無く、表現方法が変わった・増えただけなんだろうな、という気がする。例えばおにぎりとおにぎらず、みたいな。
......あるいは「自撮り」なんてのも結局、真髄としては自画像と同じで、新しい環境の普及に伴い生まれてきた、新様式でしかないのかもなあ、と思ったりする。
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