現場に足を運ぶってのは、その場の空気をつかみ取るのに大切なのですが、同時にその空気に飲み込まれる事でもあるのです。迫力ある映画を見た後に気分が高揚し、その映画の世界観に浸透してしまうのと同じ。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 7月 24
多方向性・評価のある対象への現場への取材は、極力自身の中立性を維持し、その上で評価を下して記事をしたためないと、その対象への単なる宣伝、いや太鼓持ちなプロパガンダ記事となってしまいます。現場取材の過度な期待に注意しなきゃいけないのは、この点なのですね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 7月 24
先日から何度か触れている「戦場ジャーナリスト」な方は過去の経歴を見るに、むしろ「現場に足を運んでいればそれを免罪符にしてどんな内容の発言も許される的なオールマイティカードをゲットできる」的な思考が強いように見えるのだけど、それも合わせて、現場取材絡みの話。
当方も昔、いや今でも機会があれば色々な現場に遭遇したり足を運んでその場の空気を実感し、リアルな状況を見極めて、記事に反映したりする。数字や資料だけではつかみきれない、場の雰囲気ってもとても大切で、それを知って初めて気が付くことも多い。
でもその現場の空気はとても印象が強いこともあり、その空気に飲み込まれてしまうことも少なくない。その空気が特に方向性の上で問題の無い方面へ誘導するのならともかく、それがきっかけで事実をよじ曲げたりすることになったら問題だ。
ましてや多方向性のある事案や物品に対する取材の場合、その取材対象に関しては極力一歩自らの立場を引いて、客観的に、中立的な目線で見なきゃいけない。雰囲気にのみ込まれたら、飲み込まれるほどの迫力だったと言及するのはいいけれど、飲み込まれて事実を誇張したり数字を上乗せしたり、取材対象の話をうのみにしてしまっては単なる広報宣伝活動と変わらないことになる。そしてそれは現場の空気を知ることはできても、現場で足を運んだことによって得られる事実を知りたい人への情報としては、何の価値も無くなる。
現場取材に過度な期待をしちゃいけない、注意しなきゃいけないのはこの点。まだタレントのコンサートなどにおけるレポートならそれでもいいんだけどね。デモや戦場における片方のみのふらさがり的な取材は、得てしてこのプロパガンダ化問題が大きなものとなってしまうわけだ。
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