昔の偉い先生は著作くらいでしか接しないから、いつまでも有り難みがあったのだけど、最近の「偉い先生」はSNSにまで手を出すから簡単に馬脚を現してしまって有り難みが薄れた、というか無くなった (´・ω・`)
— ano_ano (@ano_ano_ano) 2015, 7月 24
アルファ・ツイッタラーがいつも断定口調で経済や政治、社会を語ってて「凄いな?」「物知りだな?」と感心して聴き入っているのだけど、そうした人たちもフィリピン関係や私の専門に近いことに言及した時にデタラメを述べていることがあって、実は、それ以外の事柄もデタラメなんだと気付く。
— ano_ano (@ano_ano_ano) 2015, 7月 24
こちらも先日から何度か触れている、「肩書を持つ専門家先生みたいな人が、その肩書を政治利用してしまったり、自分の専門以外でスットコドッコイのオタンコナース的なことをすると、自分の専門分野に関する信頼性も失墜してしまう」的な話。新聞記者をはじめとする報道勢にも多いのだけれど。
指摘の通り昔はエライと思われている人達の接点は、よくて作品位で、あとはインタビュー記事やらニュース映像で見かける位。運が良ければサイン会などで実物を観たりすることもできるけれど、内情を知る機会はまったくなく、ましてや意思疎通など不可能。
しかし今では多くの人達がツイッターやフェイスブックなどに自分の身をさらけ出し、同時に馬脚を現すというのが実情となっている。
以前も語った感はあるのだけど、近所の井戸端会議の内容でも、おしゃべりな方の耳に入れば町内に知れ渡ることになる。ましてやインターネット上の書込みは、ツイッター上のつぶやきも、Facebook上の書込みも、基本的には世界中に公知したのと同じ。「独り言のつもりだった」では済まない。ニーチェの言葉「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の通り、先生と呼ばれる方々から見た一般の人との距離の接近は、一般の人から見た先生諸氏との距離の接近に他ならない。自分が投げる球だけは距離が近く、相手が投げる球は距離をおいたままなんて都合の良いことはできない。
ましてやネット上では多種多様な専門家、実際に携わっている人、肩書こそないけれど特定方面では専門家以上のノウハウや知識を持つ人は山ほどいる。その人たちのツッコミにさらされる可能性が生じることになる。
「よいところだけを見てもらい、自分の付加価値をさらに高めよう」なんて思惑も中にはあるのだろう。しかし世の中それほど甘い話はない。
まぁ、馬脚を現すという言葉から考えれば、そもそも論として表れてしまう馬脚自身を持たなければよいまでの話なんだけどね。
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