「あっち」でやっていることだし、十分な配慮や演出に基づいて行われていることだし、自分には関係のないことではないか、というのが通用しないことはよくある。子どもじみた世界では、テレビを真似したバカによって自分の身に災いが降りかかることが多々あるので、あまり知らん顔もしてられない。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 7月 26
先日の27時間連続放送の某番組での車の事案がトリガー的なものとなっている話。どのみちテレビの番組内でのことだから、気にするまでもないんじゃないといった意見もあったけれど、それが例えば地方局で視聴者が数千人程度のものならまだしも、全国ネット局で視聴する人が万単位でいて、しかも相応に知られている人が登場し行動をしており、リアルタイムで大きく「これはフェイクです」的なものが無い以上、視聴者には多分に印象深い行動に見えてしまう。さらに指摘の通り、他人の行動を意図的に、あるいは深層心理部分で無意識のうちになぞらえるやからも出てくる。
「誰が悪い」というのをああだこうだと「議論」して「論破」すりゃ気が済む話ならそれでいいし、それだけの話なら「あっち」と「こっち」の区別がつかなくなったバカが悪いってだけの話だけど、そのバカのせいで自分の身に災いが降りかかるようになるのなら話は別で、あまり知らん顔もしてられない。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 7月 26
物語について、「それは虚構である」ということはかろうじて伝わるのだけど、いっぽうで、その虚構のなかで暗示された概念や思想のようなものは、それが本当であるかのように伝わってしまうところがある。ひとには、架空の物語のなかに真実のエッセンスを見いだそうとする修正があるからかもしれない。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 7月 26
架空の舞台を用意して、架空の歴史のなかを生きる架空の勇者を描いたら、それが架空であることはさすがにちゃんとわかるんだけど、その勇者が戦場で剣を天に突き上げながら叫んだことばは、まるで真実の重さがあるように感じられてしまう。そのことばにこそ、真実があるかのように感じてしまう。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 7月 26
架空の勇者が流した血は、それもまた架空の血だし、架空の聖者が流した涙は、それもまた架空の涙だし、彼らが人生をかけて叫んだことばも、それもまた架空なのだが、まるでそれは真実のように自分のなかに残っていく。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 7月 26
現実のものとして見てしまう、そんな浅はかな人がいる。それで済めば、対象となる行動が自己完結するのなら、多分に自己責任となるから、あまり心配はいらない。問題なのは他の第三者にも影響が及ぶような話の場合。今件の自動車事案もその類でもある。
さらには構成されたコンテンツが暗にアピールしたいと思っていることを間違って解釈したり、あるいは個々が創生してしまうこともある。テレビなどのメディアを通した疑似体験が自分の体験と融合し、それを事実として学んで認識してしまう。実際に自分がリアルで体験したことであろうが、映像を介して見た番組であろうが、経験そのものには違いないからだ。
これはアニメにしても漫画にしても変わらない。媒体上で表現されたものは、何らかの影響力がある。表現の自由は当然認められるに違いなく、侵害されてはいけない権利でもあるのだけど、ね。自由を行使する場合は同時に責務を果たさねばならない。自由な行動の結果生じる影響には、相応の対応が求められるってことだ。
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