前にも書いたけれど、「B-29に機銃掃射された」という話を子供の頃に平和講演みたいなのに呼ばれたおじいちゃんに聞かされてから、彼らの体験に敬意は払いつつも、どこかで疑う気持ちを捨てきれずに居れる。
— Janek Chenowski (@chenowski) 2015, 7月 20
@chenowski 実体験が必ずしも正確かと言うと微妙な所もありますからね...。
— コマツ伍長 (@armwatch) 2015, 7月 20
@armwatch 動力急降下をするB-29が正確に爆弾を叩き込んで行ったエピソードも聞いた事がありますが、「いやそりゃまったくの想像つーかただの勘違いか妄想だろババア」と口元まで出かかったのを抑えるのに必死でした。
— Janek Chenowski (@chenowski) 2015, 7月 20
先日もちょいと触れたかもしれないけれど、時系列的にとか月日の足し引きをするとどのような計算をしても矛盾してしまうような設定・年齢の人による経験談が、色々と語られる季節がやってきている。不特定多数の資料や総合的な検証で裏付けられていた話とは異なる体験談が出ると、新事実の発見かと騒がれたり、重みのある言葉と重宝される。現場の、経験者の言葉は重い。それは事実ではあるけれど、気を付けねばならないのは、その重みが「事実で間違いない」を刻印するような免罪符にはなり得ないこと。
上記でも指摘されている通り、論理的には有り得ないことでも平気で体験談として語られる場合は少なくない。
@chenowski @hardboiledski45 @armwatch B29がどのような爆撃をしたかのような末節ではなく、戦争の恐ろしい体験談として聞くならば本質的には間違いのない話だと思いますよ。
— てつまよしとう@7/25鈴鹿8耐観戦 (@godspeedtetsuma) 2015, 7月 20
@godspeedtetsuma ただやはり証言の中にあり得ない事があるとその証言自体信憑性を失うのは仕方ないわけで。
— 南の生き物 (@kajimaruoka) 2015, 7月 20
@kajimaruoka ご老人達が語っている語りたったことは、日本が戦争し空襲で多くの人が亡くなり傷つき恐怖を体験し心に大きく深い傷を負ったという体験でしょう。それは事実としては揺らがないし、それを疑う理由はないと思います。
— てつまよしとう@7/25鈴鹿8耐観戦 (@godspeedtetsuma) 2015, 7月 20
@godspeedtetsuma 確かに辛い経験はされたんでしょうがその体験談にあり得ない事が入っていると他の事も勘違いとか記憶違いじゃないかとなるのは当然だと思いますよ。
— 南の生き物 (@kajimaruoka) 2015, 7月 20
見方によっては些細なレベルだとの認識もある。ただ、その内容が常識を逸脱している、あるいは事実と明らかに違う内容のものであれば、例え本人、あるいは第三者が見た意図として「全体的な雰囲気を伝えたいのだ」というものがあっても、その伝えたい内容の信ぴょう性が著しく欠損してしまう。
これは以前別口で語った、「専門家が自らの専門分野以外に口を出して出鱈目を語る、あるいは政治などで特定の勢派に対して傾注するような姿勢を見せて自分の分野を前面に押し出すといったこういをすると、専門分野自身への信ぴょう性も失われる」話に近い。
まぁ、高齢者が語る場合は特にだけど、人の記憶は曖昧なので、描写などの点で後に精査が成されると矛盾・疑問が生じる所は多々ある。事件における目撃証言が良い例。 一方で矛盾点が多分に存在する事で、伝えたいと思っている部分まで疑問符を投げかけざるを得なくなるのも事実。
中には「伝えたいのは雰囲気なのだから、細けぇことはいいんだよ」とする主張もあるかもしれない。ただそれをやってしまうと、第三者へ伝える際に資料性や裏付けといった客観的な価値は無くなり、当事者の心境や感情のみが盛り込まれた「物語」以上のものでは無くなってしまう。
そういえば、昨日ランチ食べた店で、若いモンひきつれたおっちゃんが、オレは詳しいんだと太平洋戦争の講釈垂れていて、それはいいんだが、いちいち微妙にちがっているのが(「海軍士官学校」とかさ)、なんかつらかった。途中でエビフライの味がしなくなっちゃった。
— 赤城毅 (@akagitsuyoshi) 2015, 7月 29
これなんかも良い例だよね。
そしてイメージや個人の感情で「これを伝えたいから、他の肉付け部分は出鱈目でも間違っていてもいい」ってのが通ってしまうと、その感情が事実であるかのように伝えられるので、悪用される、暴走するリスクは多分にある。先日の「少年犯罪は凶悪化・増加している」が良い例。語る人の印象で伝えられ、それが事実であるかのように伝聞された面はあるけれど、実際には絶対数も比率でも状況は改善している。それでもなお、語り手が凶悪化していると思っているので、そう語るのは良いことだ、としていいのかな、ということ。
戦争体験においても、事実を語るのは良い。事実でないことを事実であるかのような脚色をして、事実であると語り、指摘を受けると「伝えたいことはその方面の話じゃない」とか「体験をした感情部分は事実だ」と論点をすり替える。いわば、体験した部分をオールマイティカードのように振りかざし、検証すら許さない雰囲気にする。終戦記念日が近づくにつれ、その類の話が増えてきそうな感はあるので、今のうちにくぎを刺す形で。
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