前にも書いたが他人の批評なんか、針の頭も信用しない方がいい。それは、あくまで、他人の意見である。また、その他人の意見は、本意ではない可能性すらある。物書きと呼ばれる人は、自分の都合で、本心ではないコトでも、さも本心のように綴ることが出来る。下手な映画を本物の傑作に思わせたり、素晴
— 三一十四四二三 (@31104423) 2015, 7月 31
らしい映画を何かの理由から世紀の駄作に貶めるのも自由自在だ。そんないい加減な他人様の批評に洗脳されて自身の評価より、文章が巧みなだけの他人の批評を優先してしまうような人も少なくない。そんな人が撒き散らした被洗脳型の批評が蔓延するのがネットの怖さだ。自分を信じないと他人脳になるぞ!
— 三一十四四二三 (@31104423) 2015, 7月 31
私の知り合いに、見た映画がつまらなくても、世評が高ければ「良かった!」という人がいる。多分、自分で面白いと感じても、多くの人が「あれはダメだ」と言っているのを知ると「ぼくもダメだと思いました」というのだろう。こういう主体性のない人にはイライラさせられるが、案外、多く存在しているの
— 三一十四四二三 (@31104423) 2015, 7月 31
直接の言及は避けるけれど、先日某映画の公開前に某有名な映画評論家がボロカスな評価をしたところ、作り手側がキレてその話が暴露されてちょっとした騒動になった件がトリガー。現時点ではその某映画評論家は公開前の該当映画を観る機会は無かったとのことで、エア試写会の評論か、という疑惑まで出てきている。で、その評論家の経歴やこれまでの評価を見返すと、どうもこれまでにもネット上などで色々と物議をかもし、観賞前の人達にネガティブな印象を刻み込むことで有名な人のようだ。
辛口、との表現を用いればまだ紳士的だけど、実質的にはイエロージャーナリズム、炎上商法的なところがあるように見える。で、ネット上の伝聞情報としては、そのような話の方が浸透しやすいこともあり、評価を受けている、みたいな。
そんな話もあって、映画......に限らす創生作品に関して、世評なり著名な評論家の意見としてポジティブなものがあれば、実際にはつまらないと判断していても、追随して面白いと語ってしまうことがある、あるいはそういう人がいる。指摘では主体性が無いとの表現だけど、あるいは「多数の意見と思われる方向性に反した自分の感性をバッシングされるのが怖い」との面もあるかもしれない。
ではないか?ツイッターなどに映画の感想を書く時も、まず他の人の意見を検索し、自分の意見が多数の意見に対して反してないことを確認する(逆であれば意見を翻したり、沈黙する)ような、世の中をビクビクしながら生きている臆病者が、論旨明確な前田有一の映画評を頼りにしているのではないか?
— 三一十四四二三 (@31104423) 2015, 7月 31
映画を語るのは簡単だ。「好きか嫌いか」だ。これに理由をつけたら感想になる。「面白いから好きだ」とか「面白くないから嫌いだ」が一番シンプルな感想だろう。何故面白いのか?何故面白くないのか?まで発展させたら、立派な映画評だ。そんなものだ。つまり元をたどればただの好き嫌いだ。そんなもの
— 三一十四四二三 (@31104423) 2015, 7月 31
を他人に頼ってどうするのか?と思うのだが、好き嫌いをはっきり表明するのは、一部の人には大変な困難なのかもしれない。 pic.twitter.com/9joniv7swL
— 三一十四四二三 (@31104423) 2015, 7月 31
確かに、一般的に評価されている作品について「おや?」と思い否定的な部分を評論すると叩かれるのが怖いな、と思ってしまうし、皆が否定している作品に関して「これ面白いじゃん」というと、石をぶつけられるかもしれない。
そして自分の好き嫌いを第三者に公知してどうするってのも言われてみればそんな気はする。ただ、口コミ論的な話になるのだけど、人って良いものは第三者に知らしめて自分と同じ好感を受けてほしいと思うし、ヤバいものは避けるべきと伝えたくなるんだよね。映画に限らず。
だから商売としての語りの場合は別として、映画などの作品の好き嫌いの語りは仕方がないし、だからこそ自分の感性を自由に発しても良いと思う。他人の意見を気にすることは無いし、分かり易そうに見えるからといって、声高の評論家の意見に追随する必要もないと思うのだな。
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