ウィキリークスすごいなあ。最近もTPP交渉の秘密文書を入手して暴露したばかりだ。今回はアメリカ諜報機関による日本政府や日本企業などへの盗聴を暴露。すごい。日本のメディアや運動団体は、イマイチ、ウィキリークスを活用しない。海外の市民団体はガンガン活用してTPP交渉などを攻めている。
— 河添 誠 (@kawazoemakoto) 2015, 7月 31
「誰が見張りを見張るのか」
ウィキリークスのリークが真実だとは限らない。 https://t.co/mzZd3YZnXP
— 伊藤 秀和 (@psychokinetica) 2015, 8月 1
これは情報を精査する上では欠かせない概念......というか考え方の一つで、同時によく陥ってしまいがちな罠。ある仕組みや体制から漏洩されたとされる情報が何らかの形で合法・非合法を問わず開示された場合、その情報がすべて正しいものであるとの前提で語られてしまう、思い込んでしまうケースが多々ある。
一方でよく考え直してみると、隠されていたとする情報そのものが正しいとの裏付けはどこにもない。A社の内部資料が漏えいしたとの話はしょっちゅう目にするけれど、それを裏付ける材料はどこにあるのだろうか。その企業の公式用紙と同じフォーマットだったとしても、その用紙を手に入れて数字を加えた可能性もある。
さらにいうと、その情報が漏えいされたものであること自身は確かだったとしても、「表に出したくない、正しい情報」とは限らない。漏洩されることを前提としたジャンク・ダミー情報の可能性もある。そしてそれっぽさを演出するために、一部のみ「表に出したくない、正しい情報」の場合もある。結局何が正しくて何が間違ってるのかを確実視させる方法は無い。この辺りは「吉田調書」の漏えい問題でも何度か触れている。
今件でもウィキリークスの情報を元に、某講師な方がウィキリークスから出た情報はすべて真実的な姿勢を見せているけれど、これは非常に危険な方向性。隠されていたとする情報が正しいとの裏付けはどこにもない。
このような「別サイドから出た情報はすべて事実」と思い込んでしまう、思わさせられるパターンは、ウィキリークスに限った話では無い。「真実の」「被害者による」「市民の声の」「弁護をするサイドの」意見、声がすべて事実、正しいとは限らない。先日の「目撃証言」による印象的な情報が多分に混じった内容と、実体との隔離も良い例。既存の情報はすべてフェイクで、それに反しそうな新たな情報がすべて事実である......と誤解してしまいがちではあるけれど、あくまでも精査対象となる情報の一つとして見極めるのが賢い切り口では無いかな。
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