震災の後,友人の本棚の整理を手伝わされた事がある。今まで自分が敬愛してきた芸術家たちが被災地を差別したり放射能デマをばら撒いたりする言動に嫌気がさして彼らの本やCDを処分するためだ。そして作業が終わった友人の本棚には何も無くなり,まるで長年付き合った男と別れた時のようだった。
— 井上リサ☆7.25美浜町応援会 (@JPN_LISA) 2015, 8月 4
震災以降よく出てくる状況ではあるのだけど、特定の作品を気に入っていても、その作品の創り手の背景や思想、思惑が暴露されると、思いっきりその作品群への熱が醒めてしまう......どころか、反動で敵意、憎悪にすら転じることがある。自分を騙していたな、騙されていたんだな、みたいな。
確かに作品そのものの良し悪しと、創り手の感情心境とは別物であるべきなのも理解できる。どれほど極悪非道の大悪人が料理人であっても、その料理人が創ったレシピによる美味しい料理は美味しいに違いない。ただ、その創作物の向こう側に見える思いが読めてしまうと、すっと心の中の火が消える。舞台劇にのめり込んで見ていたのに、無神経な隣の人がかきわりやら舞台の粗を大声で語り、現実感に引き戻されてしまうような、あの瞬間が連続してしまうのだな。
目の前に並べられているアーティストたちの作品。個々の作品は好きなんだけれど、創り手の思惑が見えてしまうと、それぞれの作品への想いが再定義され、疑いを持ってしまう。作品が目に触れているだけで、わだかまりやもやもやとしたものが想起される。QOL上、非常によくない状況となる。
震災以降、このような経験をした人も少なくあるまい。当方も作家方面で数名、そのような判断を下してしまい、さすがに捨てるまでにはいかなかったけれど、新作の調達を止め、手持ちの作品も段ボール箱に押し込んでしまったものがある。色々と裏が読めてしまうんだよね。作品の一つ一つに。
熱心な愛好者というのは,作品に自分自身を投影してしまう事もあろう。私も銀座で画廊回りをしていて「リサさんの作品は前から好きで,20年前に琵琶湖まで作品も見に行って,展覧会葉書も大事にしているのに,私達と一緒に原発反対と言ってくれなくて悲しいです」と,知らない人に言われた事もある。
— 井上リサ☆7.25美浜町応援会 (@JPN_LISA) 2015, 8月 4
こういうの、とても寂しいですよね。
でもPTSDの原因にもなりかねないので処分はやはり妥当。
もちろんアーティストが政治的考えを持つのはいい。しかし単なる反骨PRや自己顕示のために、最も弱い立場の人間を踏みにじることに無頓着では...。 https://t.co/LKDrGVaipO
— 林 智裕 @福島御用住民 (@NonbeeKumasan) 2015, 8月 4
@NonbeeKumasan 友人の本棚を一緒に整理する時に,後で後悔するといけないから全部私が預かると言ったのですが,「お願いだから捨ててくれ」と泣かれました。同じ様な経験をした方々が私のTLにもいましたよ。
— 井上リサ☆7.25美浜町応援会 (@JPN_LISA) 2015, 8月 4
原発事故麻雀はまずアートとして面白くないし,自分の言説に都合のよい当事者をインスタレーションする事で予想される批判に予防線を張っている。こういうところも「表現」という行為を甘くみていると感じる。 https://t.co/QvtL2hBukO
— 井上リサ☆7.25美浜町応援会 (@JPN_LISA) 2015, 8月 4
@JPN_LISA 実際のところ、有名人が面識すら無い自分達や故郷を攻撃してくるのは、薬物乱用で逮捕されるのを見る以上に残念です。(薬物乱用で逮捕された上に更に、の人までいましたけど)
フラッシュバックって多少なりともありまして、ダメな人は生理的にダメになりましたね。
— 林 智裕 @福島御用住民 (@NonbeeKumasan) 2015, 8月 4
@NonbeeKumasan 音楽は良くも悪くも人の精神にダイレクトにインパクトを与えますからね。歴史上の独裁者たちも音楽と映像を巧妙にプロパガンダに使っていますし,東京でも特定の病名や病状を連呼する醜悪な反原発デモを見た知人がトラウマになりました。
— 井上リサ☆7.25美浜町応援会 (@JPN_LISA) 2015, 8月 4
PTSDの可能性。目に留まる、視界に入る、思い返すトリガーが目の前に存在する。確かに可能性は否定できない。自分がかつて事故に遭った時の車種のミニカーがずらりと、その事故の状況を再現した状態で置かれていたら、どう思うだろう。オーバーと思うかもしれないけれど、ステルスマーケティングの発覚後の反動による憎悪と同じで、自分がかつて好き好んでいた対象だからこそ、そのインパクトも大きい。
@JPN_LISA だから逆に、TOKIOやカンニング竹山さん、江頭さんや炊き出しに来てくれたSMAPの方々などには地獄に仏を見る気持ちでした。
特にTOKIOやカンニング竹山さんは今も継続して福島に度々関わって下さって、とても励まされています。カッコいい、と思いますね。(^^)
— 林 智裕 @福島御用住民 (@NonbeeKumasan) 2015, 8月 4
@JPN_LISA @NonbeeKumasan 福岡に住んでる僕でさえ悲しい思いをしたのでホントにたまらなかっただろうと思います。表現ってほんとになんなのだろうと今でも考えるし、自分の感性をいつでも点検するくせがつきました。
— 夜しか泳げない魚 (@jetage63) 2015, 8月 4
@NonbeeKumasan 残念な芸術家,言論人,学者がいる中で,TOKIO,カンニング竹山さん,江頭さんがより一層男前に見えます。福島の人達から最も信頼を得ている方々は,主義主張をぶら下げずにシンプルに福島へ来てくれる方々ではないかと思います。
— 井上リサ☆7.25美浜町応援会 (@JPN_LISA) 2015, 8月 4
@JPN_LISA そうなんです。音楽は感性と感情に直接訴えかける代物。
それを扱う人が、入り込んだ心を内側からめちゃくちゃ乱暴に傷つけたら、特にPTSDリスク高まると思います。
全く罪がなく、むしろいいCMだと思う『あいさつの魔法』のACのCMでさえ、私は怖くて聞けません。
— 林 智裕 @福島御用住民 (@NonbeeKumasan) 2015, 8月 4
@JPN_LISA 私の知人も、長年ファンだったアーティストのグッズを残らず捨てたそうです。中古に売るのではなく、一つ残らず捨てたと。
その品物を売って得たお金を手にしたくないのと、グッズが他の人の手に渡るのも嫌だったとか。
好きだったぶん、反動も相当ですよね。
— 林 智裕 @福島御用住民 (@NonbeeKumasan) 2015, 8月 4
@NonbeeKumasan 音楽や映画や本というのは,それぞれその人の同時代性とともに存在していますよね。この音楽は就活の時によく聴いたな,とか,この本は東京に引っ越してきて一番最初に読んだ本だなあ,みたいな。好きなものを失うというのは,そういう思い出まで抹消する事だから。
— 井上リサ☆7.25美浜町応援会 (@JPN_LISA) 2015, 8月 4
好きだったけど、作品は好きだけど、デマ拡散や薄っぺらい政治発言でがっかりして、震災以降遠ざけてしまった作家やミュージシャンやアーティストは多いです。そのせいで興味の対象も変ってきたと思います。ライブも何かつまんない発言されたらやだなと思うと足が遠のいてるし。
— hiromio (@16331633) 2015, 8月 4
そうそう、思想信条と作品は違う、と頭でわかってはいるけど「あ、こんなにいい加減なことを、影響も考えずにひろめる人なんだ」とわかってしまうと、作品も楽しめなくなっちゃうんだよね。
— 田口たつみ (@tag_tatsumi) 2015, 8月 5
震災絡み、そして昨今の安保法案絡みでも繰り返し言及しているけれど、個人ベースで物事を考え、語ることは特に問題は無い。むしろ積極的にやるべき。ただし、別方面における自分の肩書や実績を持ち出した時点で、これまでの成果や実歴は、すべてその個人ベースでの思惑、政治的思想で染まってしまう。肩書、実歴を利用したのだから。例えばどれほど美味しい食事を提供する企業でも、その企業が極悪非道な裏稼業に手を染めていて、その利益で食事を創っていたことが分かったら、その食事の愛好家はどのような想いをいだくだろう。
「それも含めて自分だから」というのなら、それはそれで構わない。ただ、その上で増えるファンの多くは、その政治的意識に賛同した人が多分で、作品などへの注力は薄い。逆に、離れていくファンの多くは、作品そのものは好きだったのに、背景に潜むものの残念さから離れていってしまっている。クリエイター、創作者にとって、何が大切なのかな、と思い返せば、色々と理解はできるような気もするのだけどね。
あるいは、「そういう」クリエイターの人達は、自分の作品ですらも、自分の政治的意欲・意志のための材料に過ぎない、そんな判断を下したのかな。少なくともファンの一部にはそう思われている。だからこそ、今件のような話も少なからず聞く次第。
先の安保法案絡みも合わせ、その点では「迂闊な」専門家やクリエイターが多いな、というのが正直な感想。
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