うちの坊さんで良かった説教はこないだの祖母の葬式の時のやつですね。「葬式に来てくれる人は、もちろん故人にお別れを言いに来てるんやけど、実は故人を介してつながっていたこの家のみんなに、もう縁がなくなりますと、お別れを言いに来てるんやで →
— ジロウ (@jiro6663) 2015, 8月 8
→ 「家族が死ぬいうことは、家族を失うだけやなくて、その家族のおかげでつながっていた人達とのご縁も切れるということなんや。故人にお別れ言いに来る人達に、" 今までありがとうございました" とちゃんと自分もお別れ言うつもりで挨拶せなあかんで」
— ジロウ (@jiro6663) 2015, 8月 8
儀式的なものとして多少大袈裟なものでもしっかりと実行し、その行為をすることでそれぞれの心の中にしっかりとした仕切りを設ける、事実を認識させるというのが、お葬式を行う理由の一つ。訃報は受け取ったし戸籍上でも亡くなったことは確認できるのだけど、まだ今一つ死の認識ができず、式を経てようやく実感がわいてきた、という話も多いはず。まぁ葬式に関わらず、人生上の式云々のイベントってのは、多分に記憶に留めるための、現状を知るための「ハレ」的存在には違いない。
で、その考えに付加して、というか、なるほどこういう意味合いもあるのね、と感心させられたのがこの話。故人へのお別れをしに来ただけでなく、故人を中継点としてつながっていた人との縁が切れうることを認識するための場でもある、と。
家族ぐるみの付き合いの場合、特定故人が亡くなっても付き合いは続く。しかし特定の一人を中継点としてやりとりしていた場合、その人がいなくなれば関係も無くなるのがオチ。人と人との縁を支えていた交流点が無くなることの認識と、別れをする場でもあるという次第。
縁は色々な接点を通して複雑に絡み合う。その一方、中継点が切れれば容易に断絶してしまう。お葬式はその断絶の儀式でもあるのかな、という気もする。
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