娘が小学校低学年だった時に「クラスのみんなとなかよくしましょう」なんていう全体目標を掲げられて、「そんなの守れない」と困っていたので、「全員と仲良くするなんて大人でも出来ない。大事なのは仲良くできない子をいじめたり仲間はずれにしないこと」と言ったら、だいぶ楽になったようだった。
— ミネジ*ユーザー名戻ったよ (@morewhite_) 2015, 8月 5
「ともだち百人できるかな」と同じく、昨今になって言葉の定義の大切さと、現状の環境の変化と、人に伝える時の配慮って大切だなとつくづく思い知らされた言い回しの一つ。
中学校以降ではこんな言い回しをすることはまずないだろうから、恐らくは小学校ぐらいまで(今件でも小学校低学年とある)で、クラス内部で階級闘争的なものや派閥闘争みたいなものが起きないように、あるいは仲間外れやいじめがないようにとの配慮、姿勢を示す、少なくとも建前の上では努力を尽くすために、クラスのみんなと仲良くしよう的なポリシーなり方針を、子供一人一人に教え諭すことになる。
ただ子供にとっての「仲良く」ってのは、大よそは毎日一緒に遊んだり、お互いに自分の家に呼んでおしゃべりをしたり、時には食事にお呼ばれしたり......位な親密さと認識してしまう。クラス全員とそれをやったら(昔と比べてクラスの人数は減っているけれど)、子供の行動領域ではオーバーフローをおこしてしまう。
そのような誤解釈をしないよう、子供に「べたべたするレベルのような仲良しでは無く、いじめの対象としたり、仲間外れにしないこと」「性格的な好き嫌いはあるかもしれないけれど、毛嫌いをするのではなく、同じクラスの人として同等の立ち位置にある人として敬遠することなく、他の人と同等に扱うこと」と伝えることで、随分と気が楽になるはずだ。
例えるなら、同じ部署、部局、課の人との付き合い、あるいはサークルの仲間との付き合いと同じようなもの。名前を知っている、どのような人物か認識している。その程度でよい。すべての人とローテーションで飲みに誘ったり、一緒に旅行に出かけたり、昼食を共にする必要はない。不必要な敬遠をしたり、忌避をしないこと。それで十分。
そんな当り前の事、わざわざ教える必要はない。大人ならそう思うかもしれない。でも子供には、そこまで空気を読むことはできないし、読むための空気も学んでいないし教わっていない。大人にとっての常識が、子供にとっては未知の情報である事も多い。
大人はその辺りを察する能力を身に着けるべきではあるし、子供には分からないこと、できないこと、困っていることは積極的に大人に尋ねるように諭すべきだろう。子供が尋ねてこなければ、大人には「子供が真意を理解していない、分からない」ことすら分からないこともありえるのだから。
蛇足ではあるけれど。「ともだち百人」ってのも今では色々と考え直す必要がある。友達の概念ももちろんだけど、人とのつながりの領域が昔とは随分と違ってしまっていること。具体的にはネットの普及浸透で、広く浅い友達が多数生まれている。友達ではなく、比較的親しい知人と表現するべきかもしれないけどね。
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