(所謂「学生運動」世代は多分に、デモや騒乱行為に一定の「免罪フィルタ」があるように思えます。オリエンテーションやボーイスカウト行動と同じように見ている雰囲気です。実態精査の前に、その底上げをしているような。自らの経験美化か、自身の過去を否定することを拒否しているのかもしれません)
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 8月 20
(少々見方を変えると、芸能人などが過去の悪行をドヤ顔で、昔ヤンチャなことをしていてね~的な感じで英雄譚のように語るのと近しいものがあるのかと。心境的に)
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 8月 20
例の安保関連法案を「戦争法案」と名付けて煽動したり、若者も立ち上がった云々とするデモ的な集団の背後には色々と往年の学生運動で活躍した人達の影が見え隠れしたりする一方で、それらの行動を賛美する、許容する動きが一定数見受けられる。具体的に統計を採れないのが残念だけれど、元々「そちら側」に傾注していた以外に、比較的歳をとっている人にその割合が多いように見受けられる。いわゆる学生運動世代的な感じだろうか。
で、その辺りの話を見聞きすると、昨今のそれ系の動きを、アイドルのコンサートやゲームキャラ関連の即売会、自治体のオリエンテーションやボーイスカウト行動と同等に見ている、あるいは印象付けようとしている雰囲気がある。「あの動きの背景とか精査してから言ってるの?」と首を傾げたくもなるが、見方を変えると上記の通り、かつて自分達が行っていた学生運動の類を投影し、それを肯定、少なくとも否定はしないことで、自分達自身の過去の「思い出」を美化する、少なくとも社会的には忌み嫌われている、反社会的な動きであったことを否定したいと考えると、すっと納得感が得られる。
かの人たちの行動を否定する、社会的に非とすると、自分達がかつて賛同していた行動も、社会的に否定されたものとしてしまう。すると自分の過去の歴史において、自分自身を否定することになる。それは許し難いので、今の、かの人たちの行動も肯定する。意識的、あるいはその意識すら無く、自己防衛本能的な判断をしているのだろう。
ただそれって、芸能人や社会的に成功したと思われている人たちが時折やらかす「昔のヤンチャ話」と同じで、余りほめられたものではない。
2009.2.14 【さらば革命的世代】第3部(9)社長「島耕作」の全共闘総括 弘兼憲史さん (1/3ページ) https://t.co/OMuNIYXNbz pic.twitter.com/nv7uBOioUs
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「時代の趨勢(すうせい)は「左」に傾いていたが、弘兼さんはそうした風潮をつくったのは学生ではなく、当時のマスコミの影響だと指摘する」
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「「あのころは、社会主義的なことを言う言論人がいっぱいいた。例えば、寺山修司や大江健三郎なんかもそう。当時は反体制的なものを良しとする風潮があった。左翼的な言論が増えれば当然、学生は影響を受ける。学生はマスコミに引きずられただけではないか」」
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当時の一般社会において、一連の学生運動がどのように見られていたかは、その当時の選挙結果や以前【かつての学生運動と、それを美化して記憶する現在のシニア層と】で挙げた世論調査からも明らかなんだけど、一部で語られているような「日本全体が賛同していた」「世論は学生運動に同調していた」などという話からは大きくかい離しており、なかば創られたブーム的なものだったとの話、記録が山ほど出てくる。まぁ、米ソ冷戦時代真っただ中だったので、色々とそのような動きもあったんだろう。
弘兼氏の指摘がすべて正しいとは言えないし、物事がすべてイエス・ノーの二択でしかないこともありえないけれど、現在の報道の姿勢や一部ジャーナリスト、知識人の行動様式を見ていると、今も昔も同じような行動指針で動いている人が一定数居るし、それらの「流れ」が社会的に大きく体現化してしまったのが、ある意味2009年秋からの3年半の悪夢だったのではないかなと考えると、色々と納得も出来たりする。その残像的な勢派のトップがいまだに、院内での暴力行為を肯定し、再度そのこぶしを振りかざすことを公知している、そしてそれをどの報道も積極的に伝え、非難しないあたりを見るに、ね。
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