国内での殺人事件の被害者は一日平均4人。そのうち報道されるのはほんの一部。猟奇的だとか凶悪だとか、悲劇的な事件だけが報じられる。夜出歩いていたから殺される事件ばかりじゃない。家出したから殺される事件ばかりじゃない。
— 田口たつみ (@tag_tatsumi) 2015, 8月 22
悲劇は誰にでも起こり得る。そのほんの一例だけを絞り出して、「私は夜出歩かないから、子供じゃないから、恨みを買わないから」って、安心して被害者をせめるのはおかしいよね。殺人は夜だけ起こってるわけでも子供にだけ起こってるわけでもない。恨みを買ってないという人は気がついてないのかも。
— 田口たつみ (@tag_tatsumi) 2015, 8月 22
@tag_tatsumi 訂正 http://t.co/qiD7Ca1Aa5 2014年は357人で「殺人による犠牲者は一日約ひとり」です。間違った情報を書き込み大変申し訳ございません。私が初めて見たのは2000年のデータで、未遂も含むものだったようです。
— 田口たつみ (@tag_tatsumi) 2015, 8月 22
間接的に示唆している事案そのものはまだ不明な点も多く捜査中であることも合わせ、言及は避けるとして。少し前の「少年犯罪が凶悪化し増加している」『統計的に見て、実数値でも比率でも減ってます』「え?」的な話と構造は同じで、人の記憶や報じられ方、印象への残り方で多い少ないの実態がぼやけた形で記憶に残っているだけに過ぎない。
印象や感情は大切だけれど、それだけに振り回されて、感情論にひた走って暴走的な行為をしたり、やらなくてもよいことをやってかえって色々とあちこちにリソースの消費を強要したり、要らぬ追加被害をもたらしたり、新たな被害を生み出したら、身もふたもない。
人は感情の生き物だから、感情論は仕方がないとする意見もある。それも一理あるけれど、感情論だからというオールマイティカードを振りかざし始めたら、何でもアリになってしまう。人の記憶は往々にして曖昧で、その曖昧さに感情論で拍車をかけたら、ハンドルの無い自動車を運転するようなもの。
悲劇は悲劇として認識し、その悲劇の対象となる直接的な要因を取り除く手立ては講じる必要があるけれど、ちょっとした煽動や印象に振り回されて、被害者の立場にある人たちを叩くような風潮が、今件事案でちょっと見られるので、それへの警鐘も含めて。
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