ルールやモラルに縛られないのがカッコイイと思う人も時期もあるかもしれないけど、それはつまりルールにもモラルにも守ってもらえないことだと覚悟しなきゃいけないと思う
— 湖西晶@〆切ごはん②発売中 (@akikonishi) 2015, 8月 21
当り前の話ではあるんだけど、世の中の秩序やルール、しきたりの類は、不特定多数が最大限の便益を受けるための総合的な仕組み。それを破ると多くの人が損失を被ることになるので、皆の負担で強制力を創り上げ、その強制力で皆が守るようにしている。明文のルール以外に、空気を読むとも表現されることもあるしきたり、モラルも似たようなもの。順番を待つ時に列を作るとか、自転車を止める時にガイドラインに従って並べるとか、ね。
もしこれらの決まりを皆が守らなければ、強制力が一切なければ、「北斗の拳」のような弱肉強食、世紀末的な乱世となってしまう。それを望む人はどれだけいるだろう。
ただ、一律の決まりごとに対して反発心を覚える場面もある。他人と同じようなことをするのがイヤだ、自分の考えたことができないのは不満がある、単なる反抗期、それ自身は仕方がない。最大多数の最大幸福が原則なので、すべての人が全部完全に満足してハッピーな決まりや環境など作り得ない。
もっとも、そのルールやモラルに縛られない、自由奔放な生き方、行動を望むのなら、それは同時にそれらのルールやモラルのもつ抑止力にも期待できないことを忘れてはならない。防犯周りで日本と同じような服装をしていると、海外ではあっという間に盗難にあってしまうってのが良い例かな。
自分はルールやモラルには縛られた行動はしたくない、皆もすべきでは無い、そのように声高に主張する。その一方で、そのルールやモラルによって生じる便益や効果、保護は引き続き享受したい。それは「ご飯は食べたいが代金は支払わない。ご飯を求めるものに食事を提供するのが食堂の義務だろう?」とドヤ顔を決める無銭飲食者と同じ事。
インフラや社会的規範全般に関していえることなんだけど、それが空から降ってきたものでなければ、異次元世界から無尽蔵に放り込まれてくるものでもなく、これまでの数多くの蓄積と関係者の努力の積み重ねとその継続で成り立っている、改善維持されていることを知らず、あるいは無視した上で、お大尽モードで語る「知識人」の何と多いことか。
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