これは素晴らしい説明。平安の人と魂が繋がる気がする。 https://t.co/H4xyWq9NBi
— Nagata Harunori/永田晴紀 (@nagataharunori) 2015, 8月 23
中学校の先生が「最近の若い人は感動した時に写メを取りますね。どんどん取りなさい、その時の気持を覚えておきましょう。それは、昔の人が俳句や和歌を読んだのと同じ理由なんですよ。あなた達の感性と同じなんですよ」とおっしゃっていたこと、思い出しました。
— スパイン (@supan_caall) 2013, 6月 8
従来型携帯、今ではスマホがメインだけど、ともかくデジタルカメラ機能を有する携帯電話で、それこそメモを取るかのようにバシャバシャと写真を撮る。その姿を興ざめするように嘆く人も少なからずいるし、先日もちょいと「カメラで撮るだけでなく、その場のリアルな体験も忘れちゃいけない」って話もした。一方で、こんな発想もアリだし、確かにその面もあるよね、と思わせてくれたのがこの指摘。
昔の人は出会った場面や情景を、句にして詠むことがあったわけで。もちろん相応の教養や感性を持つ人に限られ、それを知らない、技術を持ち合わせていない人はもやっとした、体現化できない想いを記録に残す概念すらなかったのだろうし、持ち合わせていたとしてもそれを上手くできずにもどかしい想いをしていたかも。
でも今なら、出来栄えはともかくとして、撮ること自体は比較的容易。その時その時の瞬間に得た感性を、少しでもリアルに、詳しく、詳細に記録しておきたい、不特定多数に広めたいとの想いは、昔も今も変わらない。それが句になるのか、写真になるのかの違い。
他方、最初に指摘しているツイートが引用したのは、いわゆるパクツイ。二つ目に挙げたのがマスターのツイート。良い言い回しの類は、多分にこんな感じでパクられてしまう。昔も似たような話、今件ならばある特定の場でじわりとした情景を俳句に詠んだら、他の人がばくったなんてことも......あったんだろうな、きっと。
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