事件に関心を持ってしまうと、1989年の夏に見ていたような、正義を振り回すテレビメディアのあの感じが目に入ってくる。あれは見たくないから見ないようにしていると、関心を持っている情報に触れることも出来なくなる。自分にとってちょうどいい感じに情報を手に入れる、ってのはむずかしい。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 8月 24
テレビの流すもののすべてを見たいわけじゃないから、一部だけを見たいのだけど、一部を見ているとそのうち全部が目に入ってしまう。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 8月 24
ワイドショー的な事件報道なんて、べつに見たくて見ているわけじゃないし、たとえ見ていたとしても、見ることと同意していることとはイコールではないのだけど、「見た」ということを「喜んで見ている」などと勝手な解釈をして、「視聴者が見るから作るんだ」と責任を擦り付けられるのもうんざりだ。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 8月 24
「一人でも多くの人の記憶に刻むために実名報道を」「視聴者が望んでいるから仕方が無く過激で事実とは異なるような認識をされても仕方がない内容を」「圧力がかかっているから仕方が無く戦争賛美の報道を」のように、一方ではペンは剣より強し云々的な報道の力を振りかざしながら、一方で何か問題視されると●×に強要されたから、需要があるから仕方がない的な言い訳を、報道界隈でよく見聞きする。元々そのような言い訳はあったのだろうけど、それが蓄積されて過去の話が容易に再抽出されただけかもしれない。
で、今件の指摘でハッとしたのは、テレビの場合、まぁ新聞などもそうなんだけど、従来型メディアの多くは双方向では無く一方向でしかないため、受け手のリアクションをリアルタイムで知ることはできない。視聴者の声云々ってことでインタビューなどがなされることもあるけど、それとてごく一部でしかなく、しかも不作為抽出のような「調査」としての価値がある類のモノはほとんどない。
ちなみに「1989年の夏に見ていたような、正義を振り回すテレビメディアのあの感じ」ってのは恐らく、某宮崎事件のことね。過去の資料を調べた限りでは、現在においては日常茶飯事的に行われている「はじめに結論ありき」「その結論を出すためなら何でも演出する」「見ていてわかりやすい、叩きやすいものをよりアグレッシブに映し出す」「事実やそれに基づいた有意義な論理的推測など不必要」的なものが大名行列モードだったようだ。
ハッとしたのは最後の部分。すべてを見たいわけじゃないのにすべてを見たことになってしまう、見てしまう。そして見たこと自身が見て喜んでいる、支持しているとの解釈がなされ、その解釈のもとに報道側の責任の転化が視聴者側にされてしまう。そして視聴者は不特定多数だから、特定に責をゆだねることができず、うやむやになる。精々キャスターの誰かが「皆も気を付けねばならないのかもしれませんね」的なコメントをしてオシマイ。
責任はほとんど取らずに済む。重大問題が発生しても精々お身内のBPOから指摘を受け、それっぽい反省やら対応をしてそれで終り。効果が無いのは同じようなことが繰り返されることからも明らかにされている。昨年の二つの吉田問題で大いに揺れた朝日新聞でも、第三者委員会なるものが出来たけど中身は第二者委員会みたいなもので、結局何の意味もないことは、その後の各方面での所業で明らか。
「視聴者が望むから仕方がない」との主張には以前から疑問もあったんだよね。それは誰が確認したの、どれほどの割合・人数が望んでいるの、具体的にはどのような事を望んでいるの、人の欲望は尽きぬことを知らないけれど、そのうちの特定方向への「望み」へと誘導したのは誰でもない報道自身じゃないの? とかね。
良く使われる言い回し、既得権益の悪用とかって、実はそれを語る報道側そのものじゃないのかな。
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