私は『注意した言葉が通じそうな様相の子供』が「年齢層を鑑みれば注意したほうがいい行為をしている時」に『"親が他の事に夢中になってる等の理由"で放置している親』に対して「おたくのお子さんクソガキ化してますけど?!??」と苛立つことはあるものの、子供そのものは嫌いではないのですじゃ...。
— 中村珍 (@nakamura_ching) 2015, 8月 23
昔、私はてっきり自分が子供嫌いなのかと思っていたのだけど、それにしては子供と遊びたくなるし、よくよく自分が嫌っている状況を紐解いてみたら、「親がある条件を満たした時に生じるor制御されない」子供の行為...つまり『親側の先述の条件を満たしたような佇まい』を酷く嫌っているだけだったわ。
— 中村珍 (@nakamura_ching) 2015, 8月 23
先日の【乗り止めてあるバイクはおもちゃじゃない。子供に遊ばせるなど問題外】に絡んだ話。公共の場において子供の行動をどのように見るか、判断するかに際して、事ある毎に問題提起されるけれど、一つの見方として「ああ、そういう部分もあるのかな」と思わせる指摘。要は子供そのものは嫌いでは無い、その位の歳なら仕方がないかもしれない、それは認識している一方で、その状況がおきているにも関わらず、それを制止するなどの責を負っているはずの保護者が、何の対応もしていないことにいらだちを覚えてしまうというもの。場合によってはそのいらだちの方向が、子供自身に誤って向かってしまう事もある。
誤解を生みかねないことを承知の上で例えると、ペットがお痛をした時に、第三者あるいは被害者は、ペット自身にお叱りをするだろうか、それとも飼い主にするだろうか。そのペットが人間の言うことを認識できているとしたら、とか。色々と考えてみる。
なにがキッカケでそれに気付いたのかは明確に思い出せないんだけど、(※私は成人→)「近所の小学生A君と道で会ったから一緒に遊んでおやつ買ってあげたりして喋ってるのは楽しかった」けれども、「A君が我が家の庭に勝手に入って遊ぶようになったのは嫌だった」のが考えるキッカケだった気がする。
— 中村珍 (@nakamura_ching) 2015, 8月 23
あと「マンションの隣人の子供が親同伴でうちのドア前を走るのも、うち側の壁にボールぶつけて遊ぶのも嫌だった」けど、「その子と近所の公園で会った場合には一緒に遊ぶと楽しい」とか、そういう矛盾じみたズレに戸惑いつつ考えてた結果、私やっぱり"子供は"嫌いじゃないんだってだんだん分かった。
— 中村珍 (@nakamura_ching) 2015, 8月 23
「幼児が私のバイクによじ登って遊んでたのを見つけた時はアラアラだめよw危ないぞw」って気持ちだけ湧くのに、「親がその幼児を抱きかかえて私のバイクのサドルに、ほーら、バイクだよ?!ってやってたのを目撃した時は物凄く頭に来た」から、私が嫌っているのは親による私の公共物扱い等なのだ...。
— 中村珍 (@nakamura_ching) 2015, 8月 23
子供が何かやんちゃなことをするのは仕方がない面もある。教育、啓蒙、経験、判断がまだ大人ほど十分ではないから。また価値観も本来あるべきものとは別の軸にあるって場合も考えられる。ただその許しは、大人である保護者には通用し難い。
そう考えると先の記事にある、バイクをおもちゃのように扱う子供がいても、その行為自身は危ないしすぐに止めさせねばと考えるし、怒りもそれほどではないけれど、保護者が率先しておもちゃのような取り扱いをして子供に使わせていると、怒髪天モードになるのは理解が出来る。
子供周りの問題の一因って、この視点で考えると、すっきりする部分があるのかもしれない。
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