「不気味の谷」があるように「人形劇の山」というのがある。人形劇は優れて人の心を打つ。それは人形が一見して「つくりもの」であるがゆえに、全てを純化して見る者につきつける事ができるからだ。初期のゲームが大いに利用していたのがこの力で、面白いことにゲームはこれを自分から捨ててしまった。
— ゾルゲ市蔵 (@zolge1) 2014, 5月 11
先日ツイッター上で回ってきた、ちょっと気になるお話。後程説明するけど「不気味の谷」はともかく「人形劇の山」ってのは学術的には存在しない言い回しで、いわゆる造語。また論理体系的に裏付けされたものでも研究されたものでもないけれど、納得できる部分はある。
「人形劇の山」ってのは要するに、最初から「これはフェイクだ」との認識がしっかりと成されていると、人は脳内で補完してしまい、それらしさを覚え、純に楽しめるというもの。観光地で見かける、首を突っ込んでなり切りをする立て看板が良い例かな。あるいは教養番組などで良く見かける人形劇。
ゲームの類は端末の機能自身の問題から、これを利用せざるを得なかった......というか結果としてそうなった、弱点が逆に功を奏した形ではあったのだけど、性能がアップするにつれてこの効用が無くなってしまった。厳密にはそういうものもある。機能向上でリアル化することにより、じわりと響くものが増えたってのも当然あるからね。
不気味の谷現象 https://t.co/SbqTyAq5cI 概念論の一つとして pic.twitter.com/E4wD8pHkAq
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 8月 30
「人間のロボットに対する感情的反応について、ロボットがその外観や動作において、より人間らしく作られるようになるにつれ、より好感的、共感的になっていくが、ある時点で突然強い嫌悪感に変わると予想した」
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 8月 30
「人間の外観や動作と見分けがつかなくなると再びより強い好感に転じ、人間と同じような親近感を覚えるようになる」
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 8月 30
実際には文化形態や宗教観によっても随分と異なりますし、個人の趣味趣向や経験則にも大きく左右されますので、一概には言えませんが、考え方としてはうなづけるところは多分にあります。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 8月 30
......まぁ、描写をリアルにし過ぎると、かえって「あれ?」的な違和感と、面白みの無さを覚えることがある、という経験をした人は多分に居るはずです。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 8月 30
(もっとも「人形劇の山」なる言葉は学術体系的にはまだ存在していないようですので、念のため)
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 8月 30
@Fuwarin 小説版ダーティペアFLASHの後書きに3Dキャラクター作るときに、関節とかの動きとかをデフォルメせずにリアルにするとキモくなる的なことが書いてあったことをふと思い出した。
— いろまげんくてい@リハビリ中 (@stmlad) 2015, 8月 30
元ネタとなった「不気味の谷現象」も賛否両論あるけれど、納得できる部分も少なくない。蝋人形とかを思い返せば分かるかな。あるいは絵を描ける人は実体験として認識しているかもしれない。リアルを目指し過ぎるとかえって違和感を覚えるとか。
まぁ、ロボットを人型化するか否かって......は色々と要素があって、例えばキリスト教界隈では神が人を創ったと伝承しているので、似たような行為を人自身が行うのはタブーだから人型のものを作るのは忌避される、という話を聞いたことがある。どこまで本当かは分からないけれど。
ともあれ、「人形劇の山」ってのは興味深い考え方ではある。家庭用ゲーム機の性能がアップしてリアル差は増していることに違いないけれど、違和感を覚える機会も増えてきた、中途半端なリアルなのでかえって目立つのも、これで説明できそうな気がする。
これ、先日の本家サイトで取り上げたロボット周りの話とも絡んでくるんだよね。結局人を支える、人が使うためにロボットが必要である以上、人がどのような認識をするかってことは、もっとよく考えた方がいいような気がする。
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