報道の演出と語り手側の意図と「魚眼レンズ」と

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先日旅行に足を運んだ際、宿のロビーで見た某社新聞の写真。人数がたくさん集まっているような第一印象を覚えるのと同時に、どことなく報道写真っぽくない、独特の雰囲気があり、キャプションを読んではっきりとその意味が分かる。ああ、これ、魚眼レンズを使っていたんだ。

キャプションで使っている宣言をしているだけまだましだけど、写真をパッと見する人は、そこまで頭が回らない、注意が行き届かない。結果として「これには人が沢山集まっている」とのもやっとした記憶だけが残る。

以前から何度か、従来型の報道に携わる筋では少なからずにおいて、これを印象に残したいから実名報道を行う、顔写真を掲載するといった、判断に基づいて特段の手配を行う独善性、上から目線的な、特権階級の所業的行為が見えてくることについて触れた。この魚眼レンズによる写真も、その辺りの話とピンとつながってくる。その写真に魚眼レンズを用い、人数を多く見せる必要性はどこにあったのか。アートなどの作品ならともかく、報道写真として、それを行う必要性はあるのか。

上の言及にもある通り、アニメ周りでは特に押井監督がこの手法を行っている。とりわけ「パトレイバー2」では効果的な使われ方をしているので有名。臨場感、密着感、隣接感、リアリティ。しかしそれを報道写真で、特定の部分にのみ使う必要性は? そこには報道の領域を超えた、伝え手の意図が多分に含まれてしまう。カレーライスを頼んだら、店主が手製の福神漬けを是非とも楽しんでほしいとばかりに、どんぶり一杯分の福神漬けを通常のカレーの上にかぶせてしまうような、そんな雰囲気。

この辺りの傾向を見ても、昨今の報道が特に、「自分達が世論を動かし世の中を創る」とする意図が多分に出ていることが伺える。事実を伝える事を責務とするのではなく、事実を無料の素材として用い、自分らの「作品」を創り呈しようとしている実態が。機関紙なり、報道の領域を超えたレポートなりならそれでもいい。しかし報道のお面をかぶって、その中身は多分に自己主張の内容であれば、それは羊頭狗肉なものでしかない。

そしてその仮説に従えば、なぜ従来型報道においては往々にして、事故現場写真なりに対する扱いを粗雑に行うのかが、ジグゾーパズルのピースのように当てはまる。

魚眼レンズを使うのは一種のコラージュ的、創り手側の手法、意図に寄るもの。それもまた報道の手立てに過ぎないとするのなら、どこまでがOKの領域なのか、ならばコラージュ、切抜きも許されるのではないか。キリが無くなってしまう。【「自由」と「自由奔放」は別物、そして「歯止めなき力は正邪の別なく暴走する」】で触れた、「歯止めなき力は正邪の別なく暴走する」そのものに違いない。

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このページは、不破雷蔵が2015年9月21日 07:54に書いた記事です。

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