人間の教師とそのへんのDS学習ソフトを同じ時間競争させて、勝った方を採用とかでええんちゃうの? 負けた教師はクビでええやろ。他の仕事なら当然のことをやらないから教育だけ延々と遅れてるわけで、いいかげん機械と競争させて負けた奴を排除していくべき
— 砂鉄 (@satetu4401) 2015, 10月 23
昔と比べて習得すべき事柄が累乗的に増えて、さらに情操教育も保護者から丸投げ的な感が強くなったのでは、今の教育システムでは相当に無理っぽいという感は否めない。さらに教員サイドでも色々と内部的機構で無理がたたっていて、そのひずみが大きく露呈化されつつある。校内暴力云々の激化からゆとり教育にシフトした際の、教育の仕組みに生じたひずみの修正方法が明後日方向だったのがまずかったのかなあ、という気はするけれど。
で、すべてがすべてではないのだけど、ここまで複雑化した以上、色々と割り切った形で効率を求めるというのも一つの手ではあるってことで、興味深い指摘。今必要でない、比較論として劣っていたとしても、後でまた必要になった時に系譜が途絶えていたらあら大変ってことにもなるのだけど、全部が全部、すべて温存するほどの体力があるとも思えない。むしろその温存している部分で害悪を生み出しているのなら、それはそれで問題。
公教育にとって大切なのは「知性を与える」一点のみで、体力を付けさせたいなら図書館のようにフリーのスポーツジムを作るべきだし、協調性を付けさせたいなら遊ばせれば良いわけで、今の学校に全部集約している状態がもう何もかもおかしい
— 砂鉄 (@satetu4401) 2015, 10月 23
@kurukurushoujo 昔はそうだったけど、今は皆塾に通って大量の移動時間をロスしてるから、塾だけになればそのロスが無くなるって話やで
— 砂鉄 (@satetu4401) 2015, 10月 23
昔ならコスト削減の為にまとめるのは良かったんだろうが、今は機能を集約しすぎて逆にコストが増えているし、教員は覚える事が多すぎて対応できてないし、管理もできてない(学校を潰すと体力作りも、社会性を学ぶ場所もなくなる)わけで、一点特化の私塾の方が高レベル化してるんだよね
— 砂鉄 (@satetu4401) 2015, 10月 23
そこから素直に学んで、体力づくりは体力づくり専門、勉強は勉強専門、遊びは遊び専門でやってしまった方が間違いなくコストは安いし高レベル化もしやすい。これが何かっつーと昔の日本の「寺子屋+道場」形式で、日本は私の方が進歩が早いのだから、国民性に合わせてそうした方が楽
— 砂鉄 (@satetu4401) 2015, 10月 23
なんで今一箇所に纏める価値がないかっつーと、そりゃみんな塾に行ってるからや、移動コストの話なんか塾に通わないといけない時点で何の意味もない。移動コスト解消とういのは「そこだけで100%済む場合のみ存在するメリット」であって、現代ではもう絵に描いた餅でしかない
— 砂鉄 (@satetu4401) 2015, 10月 23
というか近代化にともなって「大企業より分化した組織をシステムで結合した方が強い」という事が50年以上前から提唱されて、実際その通りになってるのだから、今ここではっきりさせておくけど「一点集約」が強いのは社会が未発展の一時期だけで、基本は分化した方が圧倒的に強いんやで
— 砂鉄 (@satetu4401) 2015, 10月 23
@satetu4401 @aim54_phoenix フォロー外から失礼します。いっそショッピングモールや複数業種共同運営してる物流センターみたいに、専門化した教育センター作ったら良いかも知れませんね。基幹教育だけ公が担って、専門分野は同施設内の民営化組織や私企業を選べるとか?
— 大平(min) (@min_ohira) 2015, 10月 23
学校への集約は現在ではメリットよりもデメリットの方が大きい。特に私塾におけるコスト換算と、その発想から導き出される極論としての「寺子屋+道場」なる答えは、ちょっと既存の発想には無かった切り口で、ああなるほど感が。もちろん現状のシステムなら平均値のあるものを大量に生成(というと語弊があるけれど)することには向いているけれど、詰め込む情報、求めるべきものが増えすぎて、種類が増加しすぎて、それらも合わせてすべてを平均化しなきゃならなくなった結果、全体値がどんどん下がってしまっている。
無論この発想がすべて正しいってわけでは無く、そしてこの仕組みでは当然今まで以上に教育機会に関して差異が生じることになる。また、多種多様なものへの接触機会の用意ってのは、当人あるいは周辺関係者が気が付いていなかった可能性を目覚めさせる可能性も秘めている。また、子供の道筋を多分にかじ取りする選択者となる保護者のスキル次第では、これまで以上に失敗となる結果を見出してしまうかもしれない。ただ、少なくとも現状のようなひずみ、軋み、不合理的なものは軽減されるに違いない。
どちらか一方のみが良くてあとは全部だめではなく、良い所取りをしていくのがベターなのかな。今回語られたような選択制、効率の良い教育システムってのは応用部分で私的に選択させるとして、公の部分は本当の基礎部分に集約するとか......
......ってそれ、まさに義務教育とその後の任意教育部分そのものなんですが。そこまで立ち返る必要があるってことかな。
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