黒澤作品の「動き」について解説した動画。日本語字幕あり。僕が最近の映画に感じていた不満の半分以上がこれで説明できます。 | Akira Kurosawa - Composing Movement https://t.co/mhuxWrLpRC
— 吉田誠治/ティア114や12a (@yoshida_seiji) 2015, 10月 26
@yoshida_seiji 僕の知る中でこの技術を最も忠実に再現しているのはデヴィッド・フィンチャー監督です。「ハウス・オブ・カード」が会話中心の政治ドラマなのに飽きずに楽しめるのは、このカメラワークあってこそですね。
— 吉田誠治/ティア114や12a (@yoshida_seiji) 2015, 10月 26
@togasirikka0612 よく分かります。僕もかなり眼から鱗な内容でした。ジブリ作品にも通じますね。最近改めて観た「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でも同じ工夫をしていました。さり気なくやるのは難しくて、このあたりが黒澤監督のセンスなんだと思います。
— 吉田誠治/ティア114や12a (@yoshida_seiji) 2015, 10月 26
直接「●×だから□〇なのです」とセリフで説明することなく、さまざまなカメラワークや周辺の環境の変化、個々の細かい動きの強調による心理描写の投影。多分に個人が自分の目を通して見たものを脳内で解釈する際に独自に通すフィルタの機能を、あらかじめ画像上で行ってしまうことによる、リアリティの強調と物語性の付加。黒沢監督の数々の作品や、コメントなどでも指摘されているいくつかの作品の個々の部分で見られる「魅せ方」の手法の一部が解説されている。黒沢作品が日本だけでなく世界中から受け入れられている点を見るに、この方法論は日本だけでなく世界で通用するものなんだな、と。
そしてこの指摘って単に映像作品に限らず、漫画にも多分に当てはまるような気がする。オーバーかもしれないけれど、印象に残る、繰り返し読みたくなる作品って、この方法論で考えると結構納得がいく部分があるのかも。......そうだね、確かに自分が後々まで心に残ったと考える、推したい作品って、結構この「動き」が分かっている作品が多い。逆にその辺りがいいかげんだったりすると、醒めてしまう。
最近の邦画の、やたらと説明過剰っぽさが気になっていたのだが、さっき急に納得がいった。考えたら食品も家電も、今の日本全部が説明過剰なのだ。そうしないと怒る奴がいるから。これで映画だけ「あえて語らない風情」とかあったらヘンだ。そんな部分でリスクを抱えるくらいなら説明した方がいい。
— ゾルゲ市蔵 (@zolge1) 2015, 10月 28
話としてはまったく別物ではあるのだけど、逆の意味でこれが思い起こされたので合わせて覚え書き。最初に触れた、直接言葉で説明する方法は、確かに確実に分かるのだけど、味気ないものとなってしまう。何というのかな、最初から答えが書いてある穴埋め式の問題集みたいな感じで、自分の想起の余地がなくなってしまうのだよね。「監督の押し付けがキツイ作品」が増えているのも、これと関係があるのかもしれない。
まぁ確かに、説明を過剰に求める意見ってのはどんな世界にもある。それこそ黒沢監督作品にも「説明不足でわけわからん」ってのも多分にあるのだろう。その意見に対し、その他の人がどのような反応を示すのか、創り手がいかに対処すべきか。良い作品作りには、その対応の仕方が結構影響しているような気がする。
そりゃ確かに「細かい説明を求める層」が一定量いて、その層に向けた作品を作るというのなら話は別なんだろうけどさ。
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