以前、誰かのツイートを読んで知った「今の若い脚本家は地上波の洋画劇場終了後世代なので洋画を観ていない」
これ、未だにジワジワきている。洋画は外国のことを知る窓になっていたように思う。それが無くなっていたとは。脚本家だけでなく、日本人全体に影響を及ぼしているような気がする。
— 堂本かおる (@nybct) 2015, 11月 22
俺が前から展開している自説は、この事以上に「まんが日本昔ばなし」や「世界名作劇場」的なものが地上波から殆ど消えてしまったことによる、物語の定型が皆で共有できない危険の増大。これはエンタメにおいて致命傷になりかねない https://t.co/oO95ZoajMp
— モンタナ (@gaitifujiyama2) 2015, 11月 22
当時は映像系、そして距離を隔てた場所で生成されたエンタテインメントを楽しむ機会があまり無かった、数も少なかったのも要因ではあるけれど、この指摘にはどきりとさせられた。テレビの洋画放送や「まんが日本昔ばなし」や「世界名作劇場」、そして加えるならば数々の時代劇。以前は繰り返し再放送で流されていた番組。某地域の「じゃりんこチエ」や「キテレツ大百科」みたいなもの。それぞれ単独で大きな要素とはなり得ないけれど、これらの番組のリピート放送によって、物語のテンプレート的なものを学ぶ(知らぬ間に刻まれている)機会があったのが、無くなりつつある。その代替となるもの、何があるだろうかと思い返してみると......まぁ、あまり無い。
すでにそれらの番組を知っている人には「マンネリだ、つまらない」として避けられる傾向も少なからずあるけれど、それは知っているから、頭にテンプレとして構築されているからの話であり、それができていない人には何か面白いもののように、興味関心の対象に映る。小学生の教科書を読んで大人が「こんな簡単なものは面白くない」として、その小学生から教科書を取り上げるだろうか。
「物語の定型が皆で共有できない危険」の最たるものが、何を見ても「パクリ」呼ばわりして、物語の継承の流れを断ち切ってしまう弊風であり、そのくせほんとにパクリが行なわれても気づかないで劣化コピーを蔓延させる眼力の低下じゃないですかねぇ>RT
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2015, 11月 24
「まんが日本昔ばなし」「世界名作劇場」は、当時「今さらこんなものをアニメにするの?」という感もなくはなかった(当時僕はすでにそれらを見るにはちょといお兄ちゃんだった)。でも、いま思えば新しいメディアの台頭と世代交代の中で、物語の「語り直し」という貴重な仕事を担ってくれたのだな。
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2015, 11月 24
世界名作劇場は、当時手放しで賛美されていたわけではなく、たとえば豊田有恒先生『あなたもSF作家になれるわけではない』に、「母をたずねて三千里」へのかなり辛辣な批評が見られる。アニメを手がけていた豊田先生にしてこれだから、「名作をマンガなんかにして」という偏見はもっと大きかったろう
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2015, 11月 24
テレビの洋画劇場があったおかげで、西洋の貴族はカツラをかぶり、西部の町にはサルーンがあって歌姫がおり、有罪無罪は陪審員が決め、海賊は帆綱で敵船に飛び移り、エンターテイナーが出世すると街角のポスターがくるくる回って汽車の動輪がッツシュガッシュいって名前が電飾になるということを学んだ
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2015, 11月 24
ロンドンの若いお巡りさんはお屋敷のメイドさんと仲良しで、刑事はいつも私立探偵からライセンスを取り上げるとおどし、新聞記者は煙草をふかしながら二本指でタイプライターを打つし、小説家は口述のため美人秘書を雇うものだということもテレビの洋画劇場で学んだ。ありがとう洋画劇場。
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2015, 11月 24
平成ガメラで、金子監督が久しぶりにやってくれてましたね。RT @yoka1210: @ashibetaku @kingbiscuitSIU あと新聞社の輪転機が高速回転すると記事の見出しが浮かぶ。
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2015, 11月 24
小説や漫画や映画の面白さを知る前に「パクリ」「ご都合主義」「茶番」という単語を刷りこまれるのは不幸なことだ。物語のクライマックスでバラバラだったキャラたちが一か所に集結するのって、最高にワクワクする展開なんだが、これを「ご都合主義だ」「何この茶番」としか言えない人たちがいるらしい
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2015, 11月 24
パクリと取るか「ええとこ取り」と解釈するか......。RT @keisatsuken1971: @ashibetaku 有名な少女漫画は世界名作からのパクリが多いみたいな批判を、SF作家のエッセイで読んだことがありました。
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2015, 11月 24
千人の金田一耕助、東横-東映版の金田一耕助の助手・白木静子女史のコスプレはおられたのだろうか。 #千金 pic.twitter.com/n1QCzbGZve
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2015, 11月 24
「輪転機から飛び出す見出し」もそうだが、大事件が起きたときは世界各国語で報じる伝統も復活してほしいもの。最近では「スカイ・キャプテン」ぐらいかなあ。 pic.twitter.com/e8c3pHySwX
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2015, 11月 24
もちろん肯定的な意味で、だけど「偉大なるマンネリズム」ってのがあると思うんだな。テンプレ化でもいい。四コマ漫画なら起承転結。以前紹介した「神話の法則 夢を語る技術」や「みんなのイラスト教室」で掲載されているようなお話。テンプレだからこそ継承しないと途絶えてしまう。データの継承において、メディアが変われば新メディアにコンバートしないと、情報そのものは永久でも系譜が途切れてしまう、先日【記録、情報の保全の難しさとメディアの特性と、そして手元の「資料」と】で語った話と本質的には同じかな。
「偉大なるマンネリズム」でそれを否定する人が誤解しがちなのは、「あなたは過去の事例を沢山知っているからそれをマンネリだと指摘するけれど、知らない人、経験の無い人にとっては初めての体験・遭遇なのですよ」ということ。ネット上の「暗黙の了解」では良くある錯誤。
「自分が知ってるそのことを 相手が知っているとは限らない」...ネット上の「暗黙の了解」の明文化 https://t.co/jA0U0feZ3i これと構造的には同じ。 pic.twitter.com/7cTEmWShVh
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 11月 25
これと構造的には同じ。あるいは親が子供をしかる時に、つい親の常識で子供の判断の善悪を見て叱ってしまうことも同じパターン。子供の知識や経験は親と同じではない。親をはじめとする周辺から経験して学び、習得してはじめてその常識や暗黙の了解、お決まりのパターンを認識することができるのだからね。
@Fuwarin 後はテンプレを知らないとテンプレを最後で覆す技法だったり、テンプレがあるおかげで情報を削ったりとかが出来ないわけで(テンプレの説明にまた時間や労力を割かないといけなくなる 情報の共有って意味合いではテンプレの存在がわりと大事になるだよねぇ
— 黒枷葵@作品作りの為休業中 (@kurokaseaoi) 2015, 11月 25
@Fuwarin 後はパトラッシュとネロ見て何でこうなっただろうねとかロミオの青い空見てこういう層は時代を超えて国内外に存在するとか、日本昔話をみてマニアックな日本の風習を知る機会になったりとか わりと子供の頃見てるのって後々にまで影響あるしなあ
— 黒枷葵@作品作りの為休業中 (@kurokaseaoi) 2015, 11月 25
@Fuwarin 後洋画だとベトコン帰り系がちょっと前ではテンプレだった ではそのベトコンとは一体どんな戦争だったのか そして帰還兵達は何でああなったのかとか 結構教材にもなりそうなんだけどね 後マイナーな映画は結構ダイレクトに文化を映してることが多い
— 黒枷葵@作品作りの為休業中 (@kurokaseaoi) 2015, 11月 25
「テンプレの説明にまた時間や労力を割かないといけなくなる」ってのは大きなポイント。相手との意思疎通をする際に、言葉の意味の合致から付きあわせしなければならないのと、最初から言葉が理解しあえた上でやりとりする、それ位の違いがある。
......これらの話も結局のところ、ぱっと見では数量化が難しい、無駄っぽいように見えてはいるのだけど、中長期的な視点で見たら無駄どころかとても大切な、基盤を構築する要因だったという事例になるのかな。
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