「報道に使うのならばソーシャルメディアの顔写真は本人の使用拒否意思があっても使って問題ない」との見解。では「報道」とは?

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三村弁護士、報道と肖像権の問題を解説 報道資料研究会


その上で三村氏は、動画投稿サイトやソーシャルメディアに掲載された動画、画像の利用について、投稿者の許諾が得られない場合でも報道利用であれば全面的に認められるとの考えを示した。また、投稿者本人が利用を拒否した場合でも、法律面で問題はないとした。

ソーシャルメディアに投稿された顔写真についても同様に、報道目的であれば許諾なしで利用できると述べた。


先日のバス事故に絡んで、犠牲者のプロフィールや顔写真などがFacebookから転用された件で、あらためて報道って何だろう的な話が色々と物議をかもしている。以前にも何度か触れているけれど、従来大手メディアの姿勢としては、ネット上の情報はすべて素材扱いという概念が深層部分にあるような感は否めない。

今件の指摘で全文を読むと、要は「報道」の錦があれば無断転用でも、さらには拒否を明示していても、自在に使えるとの話。とはいえ今件があくまでも一弁護士の見解によるものであり、この見解がすべて共通のものとして承認されたわけでは無いのも知っておく必要がある。弁護士との肩書を有している人でも、その方面で万能であり共通の意識を持ち、一体化して同一の正しい唯一の見解を発するとは限らない。専門職の肩書が、その言及のすべてを正当化する担保にはなり得ないことは、ここ数年で多数の実例が挙げられている。


指摘の通り、果たしてその写真は本人のもので間違いないとの確証はどのようにとっていたのかとか(どの道、後で間違いだと指摘されても、小さくてへぺろ謝罪をする程度なのだろう。素材として用意できればそれで良いとの考えなのだから)、先日も別記事で触れているけれど、「読者が求めているから」との大義名分を振りかざして、自らの権限を肥大化させていないかという感はある。「報道の自由は生きるために知る権利のためにある自由」。では犠牲者のプロフィールや顔写真は、読者の生存にどれほど寄与するのだろうか。書き手側の飯のタネとしての「生きるため」になっていないだろうか。

そしてもう一つ。上の新聞協会内での先生の御講談による解釈で気になった事。報道の大義名分があれば、かなり自由なことができるとの見識で、新聞協会もそれにのっとっているとのことではあるのだけど。それって「新聞」では無く「報道」に関するお話だよね。で、「報道」って何だろう、とふと考える。

明確な法律上の定義が無いとすれば(そして定義は不可能。定義した時点で、報道が法に、国家に縛られるのを認めることになるから)、類似過程と結果を持つものは、すべて「報道」と主張しても問題は無く、第三者もそれを否定もし切れないのではないかな。昔は「報道」の行為はごく少数の者による特権だったけれど、今や誰もがそのプロセスと結果を持ち、「報道」を名乗ることはできる。ユーチューバーだってテレビ局と同じように、不特定多数に向けて映像による情報を、ニュースを伝えることができる。ラジオも新聞も然り。つまり極論として、誰もが「報道」の名に基づく権利を主張できるのではないかな。

と、なると。先の「報道と肖像権の問題」に関して新聞協会が弁護士先生の説明を元に主張している内容は、そのまま情報を取り扱うすべての人にも適応されることになる。新聞は良くて、他のはダメってのは、道理が通らない。

さて。どうなのかしらね。

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このページは、不破雷蔵が2016年1月19日 08:06に書いた記事です。

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