「意識高い」が問題なのは、その本質が「意識のみ高い」でその他の実質的な技術が追い付いていないからだけではなく、その意識高さが第三者に対する攻撃につながる、不特定多数に負の影響を与えるような行動・発言だからなのですね。的外れな主張で他人を貶めるから指摘されるのです。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016, 1月 27
「意識が高い」という非難的表現に関して、その言葉自身が持つ本来の意味の解釈と多分にごちゃごちゃになり、一度定義をしておいた方がいいのだろうなあとは思っていたのだけど、なかなかまとめることができず。今朝、ふと頭にイメージが浮かんで打ち出してみたら、それなりにまとまった感があるので。
いわゆる「意識(が)高い」の言い回しは、先走ってしまったり、スタイルのみが先行したり、ちょっと格好つけたり、中二病的なところを意味するようにも思える。でもそれは特に後ろ指を指されるようなものではない。形から入るのはむしろ良い方法論であるし、試行錯誤の中のプロセスの一つでもある。多様な発想の中から新しいものは生れ出てくる。むしろそのような行動は称賛されるべきものですらある。色々試して頑張ってるじゃん、みたいな。
ではなぜ「意識(が)高い」との言い回しの対象が、否定的なものとなるのか。それは技術が追い付いていない云々ではなく、その意識の高さによる行動や発言が、他者への攻撃や負の影響を与えるためのツールとなっているから。的外れな主張で他人を貶めるから問題視される。
例えば、以前どこぞの偉い人が主張していたように「地球環境に害をなすのは人類自身だ」というのは、意識が高い発言に違いないのものの、ガイア理論的にはその発想もあるよねとか、自然環境保護のためにどのようなことができるのかな、という方向性があれば、特に問題は無い。提起のネタとしては間違っていない。しかしその「意識」から、「だから地球に仇なす人類を滅ぼさねばならない」と主張して他人の家に火をつけたり、破壊活動に走ったり、商業活動を妨害したり、人にさまざまな不便性を無理強いしたりしたのでは、「意識が高い奴め」と非難されてしまう。
意識が高い自分は偉い。
意識が高い自分は序列も高い。
意識を高く持つことで序列が高くなった自分は、意識の低い序列が低い者を批判したり、善導したりする資格を持っている。
意識と序列の高い自分の考えは意識と序列の低い者は理解できないから、意識の低い者からの批判には耳を傾けなくてよい。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
まあ、「意識が高い自分」という自己像を持つと、だいたいそういう意識構造になっちゃうんだと思う。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
意識が高い(或いは権威のある)他の誰かの意見に同調することで、「権威のある他の誰かの地位や影響力を、自分も同様に行使できる」という錯覚を持ってしまったりすることも起きてくる。一種の自己万能感で、「中二病」を構成する要素に近い。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
中二病を「現実と空想の区別が付かなくなる未成年の振るまい」に留めず、「自分の能力を過信し、自己像を過大に評価し、自己評価を認めない社会を過少評価し、自分の地平(狭い地平)の全てを支配できる(権能を行使できる)と錯覚してしまうこと、と解釈すると、「意識高い」は中二病と同等になる。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
そういう、「自意識過剰」「自己能力の過信」「自己像の過大評価」というのは、知覚できる世間が狭い子供、少し知恵がつき始める14歳前後くらいまでなら、なってもおかしくないし、たぶん普通のことなんだろう。
が、もっと歳を重ねても14歳の子供と同じ「自己過信」をしてしまうケースがある。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
「意識高い系」は正にそれで、「もっと広い地平の存在」を否定することで、自分の手の届く地平内での自分の地位を高く「固定」しているのではないだろか。
だから、自分の地平の外からの反論や批判には耳を貸さない。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
これを個人の中で完結させずに、「意識高い仲間」と共有したり、意識高い仲間内でロンダリングすることによって、「序列の下のほうにいる愚衆よりも、高い序列にある意識高いサロン」を形成し、自分はそのサロンの一員である、と自負する。共同幻想である。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
まあでも、「自分は間違っていないはず」「自分は正しいはず」「自分に意見をする奴が間違っているはず」「自分が正しく相手が間違ってるのだから、自分の地位(序列)のほうが高いはず」と連想していくのは、これは「自分を庇っている」のかな、と思ったり。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
あと、「意識が高い自分は正しい」ことにしたい最大の理由は、「自分が正しければ自分が結論を出せる」ってとこにあるんじゃないかな、と思う。
自分が結論を出せる=議論や思考に終止符を打ち、その問題についてそれ以上悩んだり調べたり時間を割いたり考えたりしなくて済む。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
例えば僕みたいなのに絡まれて出口のないゴゴゴに突き合わされるよりは、「黙れ、俺が正しい、お前は間違ってる、間違ってる奴の話を聞く必要はない、俺の結論が議論の最終的な正解、はい論破」ってやれば、それ以上時間を割かずに済むw
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
「意識の高い正義」って、そういう終わりのない答えの出ない問題から逃げる、或いはそれらを「終わりにしたい」という意識があって、場を支配して終わらせるために「正しい自分」「正しくない者の意見を聞く必要のない自分」という自己像を作り出すために利用されてるんじゃないかなあ。どうだろ。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
でも実際には、「門外漢」だったり「入門者」だったり「浅学の徒」だったり「遅れてきた部外者」だったりする人が、その場を【正確な理屈】で支配できるってのは、まあちょいと考えにくいし、往々にしてそれには失敗する。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
なので、「意識の高い権威者の権威」を嵩に着て、「権威の高い誰かに同調する俺は、権威の高い誰かと同等の価値を持ち、権能を行使できる」として、その場を支配しようとしちゃう。
もちろんボロが出るw
そこをまた、「黙れ下賎の者」って耳を塞いじゃう。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
まあ、あの「意識の高さ」は、【バリアー】だと思うんですよねー。 QT @suika_sheep: @azukiglg
「おいでよ、意識高いフィールド」
という言葉が浮かびました。
全能感と上から目線。選民思想で出来た仙人界に心を置いてるんですね。
?@ ?ω? ?
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
一段高いところに自分を置けば、【安全】だものね。
— 加藤AZUKI【「超」怖い話 申】 (@azukiglg) 2016, 1月 27
悪しき意味での「意識高さ」を持つ人の行動性向を見直すと、指摘の通り「自らを教祖とするための教典的情報」として、意識高い発言をしている感はある。子供ならその辺は無意識にやってしまうのだろう。世界観が狭いから。しかしそれを大人がやってしまうと、影響力が大きいだけに他人へ仇なす道具となる。上手く行けば宗教的なものとして自分をカリスマ化できるのだけどね。その辺の胡散臭さに気がつけば、「意識高い」存在がなぜ非難の対象となりやすいのかは、容易に理解できると思う。
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