「現代アート」と自称するものの実態を考えたら、あるものに行きついた

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具体的事例を挙げるのは控えておくけれど、先日「現代アート」を自称するものの表現行動でちょっとしたトラブルがあり、それが結構な話題......というか問題視されている。その内情を観るに、そしてこれまで同様の方向性の問題が生じている事を思い返すに、アートってのは多分に作り手の自己満足の世界、領域、生成物なのかなあ、と。それが第三者に認識され、評価されてはじめて芸術足りえる。「シュレーディンガーの猫」じゃないけれど、無人島でどれほど高度な芸術的造形を創り上げても、それが他の人の目に触れられなければ、単なる自己満足品。

無論すべてがすべてではないけれど、現代アートを自称するものが多分に、創り手のみ、あるいはごく少数のお身内だけの評価で済まされ、むしろ大多数にとっては迷惑行為、反社会的行動となってしまうのは、自己満足の部分のみを強調し、それ以外の芸術としての要素を無視しているからなのかも。

芸術として認められるのには、同時に社会における常識・道徳的なものとの共存も不可欠かな、というのが自論。最低限必要な要素としての存在。例えば「芸術は爆発だ」だからといって、周囲数十キロを吹き飛ばす高性能爆弾を「アートです」と自称しても、誰も認めてくれるはずはない。当方の原稿を目の前で破り捨てて「すべての物質は反永久的なものである事を体現した現代アートである」と高名な専門家が自ら説明、評論しても、当方はその人を拘束して警察へ差し出すだけ。今件トリガーになった問題事案は、単なる「悪ガキのいたずらがそのまま行動者を大人にしてやらかしただけ」のものでしかなかったし。


この指摘はなるほど感で、確かに既存の仕組み、常識、守らねばならない事柄に対し、反発的な行動を取り体現化することを「現代におけるアートだ」とする方向性は多分にある雰囲気。従来の殻を打ち破るのが芸術だとの方向性は間違っていない、方法論の一つとしてはありかもしれないけれど、それは手法であり目的では無い。目的としてはいけないわけで。また、その「殻の打ち破り行為」が咎められる内容であれば、そのような反応をされるのは当然の話。

で......。この社会の仕組みや常識、成さねばならないことを打ち破ることこそを第一義的なものとして、それをやらかしただけで何だかカッコイイ、だからアートだという方向性って、今問題視されている、一部のジャーナリズムや知識人、社会文化人界隈に見られる、というか肥大化している、顕著化している「社会にたてつくぼくたち、カコイイ!」と軸として同じ気がする。


「近頃の若い者は」に加えて、「自分達は迫害されている」「社会はダメになりつつある」まで含めると、きっついフタがすぽーんと音を立てて開いたようなすっきり感を覚える。現代アートに絡んで生じているいくつかのトラブルに関して、なんだか既視感があると思ったら、その部分だったのね、と。

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このページは、不破雷蔵が2016年2月 1日 07:54に書いた記事です。

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