まったく別の文脈で私がよく言ってることなんですが、人工的に作られた世界、360度中継みたいなものは、どこかしらにある世界のほころび、欠点、ミス、みたいなものが「リアリティ」を産むんですよね。完璧に世界・映像を作ろうとするいままでのクリエイターとは対立する概念なんですが。
— MIRO (@MobileHackerz) 2016, 2月 5
具体例をいうと、CG屋さんはレンズフレアを足したがるし実在のカメラ屋さんはレンズフレアを消したがる、そういう類の話です。カメラのぶれ、フォーカスはずれ、照明で演者に影が落ちる、舞台袖の裏側が見えてしまう。どれも現場は超嫌がるし現実に映像作品では「見えない」。見えることはない。
— MIRO (@MobileHackerz) 2016, 2月 5
CGの世界、VRの世界でも当然そういう要素は本来なら存在しない。そして模倣した本来の世界でも現場は絶対に見せないようにする「ほころび」であり見えることはない。でも演出としてこういうほころびを足すことで、ぐっとリアリティが増したりする。不思議な話。
— MIRO (@MobileHackerz) 2016, 2月 5
360度中継も、自分は「舞台袖の裏側も見えたほうがぐっとリアリティが増すのでそういう場所にカメラを置きたい」と思うんだけど、当分理解してもらえないだろうなーとも思う。完璧な世界を見せたい、裏側は見せたくない、というのもわかるんだけど、でもちょっと裏側を足すのもやってみたいんだよね
— MIRO (@MobileHackerz) 2016, 2月 5
以前CGで人の動きを創ろうとしたら計算は合っているはずなのにどうにも無機質感が否めず、アニメ関係の専門家のアドバイスでわざとほんの少しだけタイミングをずらしたり誤差をもりこんだところ、途端にリアル感が出た的な話をした記憶もあるのだけど。今件もまだ方向性としては同じもので。生物としての人間、そして世界そのものは奇跡に近い整合性、計算され尽くしたものに違いは無いのだけど、実のところ細かい部分でイレギュラーやミスがあって、そのようなゆらぎ、カオス感、遊びまで含めて、人はそれを自然なものとして認識している。だから完璧なものを創ると、造形としては正しいのだけど、リアルでは無くなってしまう。「何となくだけど、創りものっぽい」的な。
仮想現実世界は計算の上で創られた世界である以上、イレギュラーは許されない。バグとなる。しかしリアルにするためには、本来必要が無い、計算から外れた遊び、ミスが欠かせない存在となる。世界そのものをぶち壊すようなものは問題外だけど、許容範囲内のミスを意図的に盛り込む必要があるという、禅問答的な要素を実装して初めて「リアル」を再現できるようになる。
@MobileHackerz いま、パラグライダーの360度空撮を試しているのも、ドローンと違って舞台裏=撮っている自分の手足が映ることがリアリティになると思うからなんです...
— 大貫剛 (@ohnuki_tsuyoshi) 2016, 2月 5
.@MobileHackerz ジャッキー・チェン映画に必須の,NG集を見せながらのエンディングを思い出す..観客に"おさらい"をしてもらいつつ,苦労をみてもらうことで,体験の"残響"とリアリティを増してもらう.あれだけで哲学の論文がひとつ出来そうだ.
— Shigekazu Ishihara (@shigekzishihara) 2016, 2月 5
作り手の端々やNG集がリアルさを増す要素となり得るって指摘は、正直当方にとっては初耳であったし、確かに指摘されてみるとその感じは多分にある。単に「修正するのは面倒だからそのままにした」「モッタイナイから最後に配信した」ってわけではないのか。舞台裏をのぞかせることで、制作過程を想起させ、一体感をより深いものとする。
まぁこれもあまり度が過ぎると、直感的にリアルさを覚える云々の領域を超え、「手作りでないとダメだ」「努力をしないといけない」からさらに「手作りであれば何でもよい、工業量産品は全部だめ」「努力すれば結果はどうでもよい」という暴走をしてしまうので注意が必要なんだけどね。直観としてのリアルさ、一体感を得るための方法論が、それ自身を目的としてしまっては元も子もないわけだから。
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