ここまで意図を変える編集や歪曲解釈による「報道」が頻発すると、事実関係の確認が必要となり得る「報道」に関してはすべて基本的に、アンテナとしてのみの認識にしないと、危ない状況になったと判断すべきなのかしら。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016, 2月 18
情報ツールの飛躍的な進化で、情報の取得そのものは恐らく人類史上過去に類を見ないほどの高みに達したはずですのに、その情報の確からしさは余計によどむようになってしまったという、皮肉な結果。あるいは元から淀んでいたのが、分かるようになっただけなのかもしれませんね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016, 2月 18
詳しいやり取りの記録が出ているのに「読んだ俺様が誤解釈したのは、そういう表現をした相手が悪い」とドヤ顔的な語りのコメントがずらりと並んでいるのを見た時の当方の心境。 pic.twitter.com/IPlW21sdQQ
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016, 2月 18
具体的事例の提示は話が雑多になるので今回は省略するけれど、上にある通り「報道」として伝える側が誤解釈、あるいは都合の良い解釈をして「まとめ」て不特定多数にその内容を公知するケースが増え、必然的に全文のやり取りや議事録を参照しないとマズイケースが増えている......というより恐らくは、以前からのもので、それが単に露呈されることが増えて来ただけなのかな、と。
情報の伝達取得保持検索技術が格段に進歩したことで、情報に係わる便宜性は増したはずなのに、かえって不必要な、不確かな情報が積極的に広がるようになった。いや、単に可視化されただけなんだろう。
@Fuwarin 脇の甘さを同時に把握するのも肝要かと。ラグビーおじさんの過去の事を思うと、ポジショントークが成立しない世の中になったと。
— Bernoulli【縁の下】 (@civilmarvelous) 2016, 2月 18
@civilmarvelous 切り貼りが容認されるとなると、極論としてボーカロイド的な使い方をして合成してもアリになってしまうのですよ。本当に極論ですが、「では、どこまでが極論で、どこまでがそうでないのか」となると、線引きはできなくなってしまいますし、どんなこともアリになると。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016, 2月 18
@Fuwarin 何処からがカットペーストなのか、その辺の裁量が過度になってる印象は持っています。ただ、限られたリソースに合わせる編集は寧ろ研鑽されるべきで、その取捨選択は此方側にある権利なので、彼らの腕を掴むより、ご飯が買えなくなるような事になれば良いのかなと。
— Bernoulli【縁の下】 (@civilmarvelous) 2016, 2月 18
@civilmarvelous まとめることってとっても難しいのですよね。主旨を極力違えずに成す事が。その能力が絶望的に不足しているのか、元々不足していたのが露呈されただけなのか、それとも意図的にやっているのか......比率はともかく、その3パターンの組合せの結果が現状の気がします。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016, 2月 18
脇の甘さをとの指摘もある。確かにそれは一因ではあるけれど、むしろそれは些細な事。切り貼りは必要不可欠ではあるけれど、意図を違えずに成す事が大前提であり、それを無視して自在に作り上げるのは、単なるコラージュ漫画でしかない。
結局現状において、報道界隈で問題視されている部分の要素は、一部の悪質系まとめサイトが指摘されている問題と何ら変わりはないのかもしれない。むしろ逆かもしれないし、物事を伝える際に生じる、共通の、本質的な「カルマ」の部分なのかもしれない。
まぁ、色々な意味で「可視化」されるようになったってことでしょうね。吉田調書が物凄く良い例です。マスターが出てくるまでは「原文は自分だけが持っているから」と色々とやりたい放題だったのが、原文が出てしまい、色々とやらかしていたのが一気に露呈した次第で。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016, 2月 18
あれは「これまでも同じようなことをやっていたんだろうなあ」ということを容易に想像させるのに十分な事案ではありました。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016, 2月 18
指摘の通り、先の「吉田調書」の事例が良い例ではあるし、さらにいえば類似案件の「吉田証言」も良い例(長きに渡り、との点で)。同じようなことをこれまでに何度となく繰り返していて、今回はたまたま露呈しただけ、そう受け止められても仕方がない。
想い返すとぞっとするのだけど、報道から発信された情報に対する精査は、ネットで情報を取得・確認し不特定多数に公知する手段を個人が持ち得なかった過去では、当然成されなかった訳で。新聞やテレビなどの「報道」の思惑、意図、編集が「真実」であると、不特定多数が鵜呑みにしてしまっていたと考えさせられる次第。
もちろん過去においても個人個人の精査は成され得ただろうけど、情報取得のハードルが高かったので精査までには至らない事例も多々あっただろうし、さらに精査が出来てもその結果を不特定多数に広める手段が無かったので、情報がリンクされ、新たな価値・事実を見出すような機会も生まれえなかったわけだ。それができるようになったので、色々と見えない部分、分からない部分が分かるようになってきた、と。
結局現状では、タイトルの通り、少しでも違和感を覚えるものがあれば、あるいは特にどっちでも構わないもの以外の「報道」は一次ソースをたどる必要がある、一次ソースが開示されていないものは、原則として話半分で聞き流し、それを事実として他の話につなげるてしまうのは非常にリスクが大きいということになるのかな。
......「報道」、本来与えられた仕事をしろよ、的な。
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