基本、新聞の内容は半ばネタとして読む、一次ソース的には使えなくなった、「多数の人が目を通している」情報として認識するのが良い時代となりました。合っている、間違っていても問題ないのは日付と新聞社名、テレビ欄と四コマ漫画、そして広告ぐらいかしら。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年2月24日
頭に雑念がまだこもっていない朝方や、帰宅してからふっと力が抜けた時に、頭の中でもやもやしているメディア絡みの話が、いくつかすっと霧が晴れたり要素要素が連結して電流が走り、言葉として体現化に至ることがある。それらをいくつかまとめてみる。
まずは新聞の価値。実のところ昔からそうだったのかもしれないけれど、その内容に係わる信ぴょう性が随分と揺らいでしまった以上、その内容で大きな社会問題に係わるようなものであれば、書かれていることがすべて真実、まさにアカシックレコード的な扱いをしてはいけないのだなあ、という感が。あくまでも情報トリガーとして、アンテナとして使うのが、賢い使い方なのかもしれない。地方の面白ネタとか、発想の転換のヒントとかなら別に真偽性は構わないし、読み物ならばそこに多分のフィクションが混じっていても、それはそれで許容範囲内ではある。
でも新聞ってそういう情報はむしろ副次的なもので、事実を前提とした情報の提供が大義的な存在なんだよね。それが揺らいでいる。元々揺らいでいたのが暴露されただけなのかもしれないけれど。今や存在意義としては、「多数の人が目を通している」という、現状を表す価値でしかない。多数が読んでいるから真偽はともかく、その情報を多くの人が認識し、中には信じてしまうだろう。だからその情報の浸透性に対し、どのような事を考えねばならないか。何だかデマに対する処世術のような気もするけれど。
情報が発信されてそれでオシマイ、の時代では無く、そこから波及して色々と使われる時代なのですから、発信する情報のウェイトをよく考えてほしいなあ、と思うのです。自戒も含め。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年2月24日
これは例えば、某週刊誌で個人を特定しうるような記事を掲載すると、その情報からピンポイントで個人情報が特定され、拡散され、当事者が大ダメージを受けてしまう。社会正義の大義名分のもとに、実質的なリンチ指南をメディアが行っているのと同じとなる。その采配の権限がメディアにあるのか否か。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年2月24日
これは特に非電波系、紙媒体系のメディアに言える事。これまで通り、情報が一過性で消耗される、ところてん式のものという認識で、しかも受取側が精査をしない、できないとの以前までの前提で情報を開示してしまうがために生じている弊害。個々の情報精査能力が桁違いに向上し、それを助けるツールも多数存在し、さらに個々の精査情報が不特定多数に渡ってリンクし、相乗的な成果を上げる時代となっている。集合知というのにはチープすぎるけれど。
その現状を無視し、あるいは見なかったことにして、これまで通りに「自称正義の刃」とばかりに個人情報の開示をすると、ピンポイントで個人が特定され、その内容が拡散され、当事者やその周辺が大ダメージを受けてしまう。(自称)社会正義の大義名分のもとに、実質的なリンチ指南をメディアが行っているのと同じとなる。その采配の権限がメディアにあるのか否か。
以前も匿名・実名報道で触れたかな。報道側が対象への報道姿勢を自らの判断だけで決めている。そして刃をふるう(厳密には不特定多数に振るわせる)。その権限は裁判所や特務執行部隊、戦前の特高警察に等しい。その裁きの権利は果たして正当なものなのか。
例えば内部告発の類の記事があるとします。昔はすぐに信じ、告発された側を悪しきものとして認識しました。しかし今では「その内部告発が本当に該当メディアに届いたのか」「届いた内部告発の内容が事実を語っているか」まで確認をしないと、記事の内容を信じるわけにはいかなくなった気がします。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年2月25日
特に後者「内部告発の内容が事実を語っているか」に関しては、数量的なもの以外は、告発者の主観や事情が多分に影響している可能性は否定できず、さらにそこに記事に携わる人の主観、思惑が加わるのです。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年2月25日
「内部告発の類(情報取得元は明らかにしないとの原則)を悪用した、メディア側の世論誘導、虚報」「内部告発の類ならすべて正しいとの世間の認識を利用した情報のかくはん」のケースが多分に明らかになったのが原因なのですね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年2月25日
新聞等の「読者の声」もそれに近しいかと。どこまで本当に読者から寄せられた内容なのか、それを読者自身が知るすべはありません。無論本当に寄せられていたとしても、それを乱数的にではなく自在に取捨選択するのはメディア側です。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年2月25日
朝日新聞の「二つの吉田問題」が好例ではあるのだけど、内部告発などをはじめとした情報提供側の隠蔽(安全確保のため)が前提という報道の原則を悪用した「お痛」が過ぎ、それが次々に暴露されたことで、その原則やルールそのものが否定されかねない状況となっているのが現状。
内部告発者の証言、関係者の発言。それは果たして本当に成された証言なのか。記者側の脳内関係者、あるいは過去の発言の切り貼りではないのか。本当に証言があったとして、その内容を意図を違えずにその記事は書き記しているのか。さらにはその証言そのものは事実なのか否か。
情報戦の一つとして、内部告発者や関係者がガセネタを漏らしている可能性は否定できないし、自分の都合の良い部分だけを報道に語っている可能性もある。そしてそれの検証をせずに、報道が垂れ流しをしたのでは、単なるスピーカー以上の価値は無いし、そこには事実を伝える報道の意義は無い(その人が語ったという事実ではあるけれど、語られている内容が事実とは限らない)。
以前なら「内部関係者の語りはすべて真実だから、それを取り上げた記事もすべて正しい」と信じていたし、それが一番楽ではあった。情報の多様化、報道の可視化は、便利な世の中にしてくれたのには違いないけれど、より面倒くさい世の中にしてしまったことも否定できない。
まぁ、一人一人が誠実さを心がけていけばいいのだけど。【「私達記者は正義。がんばる。」よろしい、それでは君らジャーナリストの正義は 一体どこの誰が保障してくれるのだね?】が良い例のように、狂信的な存在は、自身を誠実であると疑わないまま、狂気を行うからタチが悪いのだよねえ......。
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