謝らない謝罪『記者が事前に原稿を確認する約束を守らなかったことや取材に不十分な点があったことなどについて「誠に残念であり申し訳なく思っております」などと述べて陳謝した。』 / "ムスリム女性「異なる人物像、独り歩き」 毎日新聞が..." https://t.co/VuX25UGGDW
— Kumicit Transact (@kumicit) 2016年2月27日
先日の毎日新聞のスペシャルなやらかし事案。取材と称した捏造、創作(何度となく指摘している、プレスとオピニオンをごちゃまぜにした超良い例)が暴露され、毎日新聞が陳謝した件。ただ、指摘の通りその文面を読みなおすと、やらかした事案を反省し、謝罪しているようには読めてこない。
以前、小学館のスピリッツで編集長が記した謝罪文のようなもの、その時に用いた表現「ヘイポーの謝罪文」的な感は強い。
#謝らない謝罪 とは文字通り、「謝らない」けど「謝罪を表明」するもので、政治及び広報において、よく使われる。https://t.co/iWKSSNgqc5
— Kumicit Transact (@kumicit) 2016年2月27日
発言によって気分を害した人に対して、「私は、あなたがそう感じていることを申し訳なく思う」と言う。この謝罪は、何か問題があったことを認めていない。さらに「発言で気分を害したことは、その人が非常に怒りっぽいか、非合理的である」と、ほのめかしている。#謝らない謝罪
— Kumicit Transact (@kumicit) 2016年2月27日
#謝らない謝罪 の一つの形式は「間違いが起きた」である。この発言者が「事態がまずく、あるいは不適切に対処された」を認めつつ、誰が間違を犯したかを特定しないことで、「直接に責任を認めたり、責任追及されたりすること」を避けようとするもの。
— Kumicit Transact (@kumicit) 2016年2月27日
「もし~なら、謝罪する」も典型的な #謝らない謝罪 である。たとえば、「誰かの気分を害したとしたら、謝罪する」これは、不正行為を個人的に認めることを拒否しつつ、責任を「気分を害した」人々にシフトさせるものである。
— Kumicit Transact (@kumicit) 2016年2月27日
#謝らない謝罪 は英語では"Non Apology Apology"あるいは"Nopology"など呼ばれる。「間違いが起きた(Mistakes were made)」は典型的な表現。https://t.co/KJFVdN754t
— Kumicit Transact (@kumicit) 2016年2月27日
「間違いが起きた」の変種で、主語を付けた「私は間違いを起こした」というのもある。逃げきれない場合に使うが、「間違い」は「悪意」ではないので、「意図的である」とか「悪意があった」ことを認めないという効果がある。
— Kumicit Transact (@kumicit) 2016年2月27日
「誤らない謝罪」という言葉そのものは今回初めて知ったのだけど、概念としては随分と前から認識していた気がする。要は第三者から見て反省している、誤っている、ごめんなさいをしているように見えるのだけど、実のところやらかしたこと自体には何の反省も取り消しもしていない。殴っておいてその暴力行為そのものを反省し謝罪するのではなく、殴ったことで相手が痛いと思っていたら申し訳ないと考えている的な感じ。また、その手法を用いることで、本来被害者である側に寛容を強要したり、世間一般にはむしろ被害者側が悪いかのようなイメージすら与えてしまう。
詭弁の方法論の一つでもあるのだけど、その時はすかさず「そうではなく行為の本質を聞いているのです」と本来指摘されるべき軸に軌道を戻す必要がある。そうでなければ加害側が本来正すべきところがスルーされてしまう。
意図の上での悪意がこのような詭弁で説明されると、いつの間にか単なるミステイクとすり替えられ、悪意に対する責任がうやむやになる。そしてそのごまかしが上手くいけば、当然悪意に対するペナルティは無いのだから、同じようなことが繰り返される可能性は桁違いに高くなる。なにしろその部分では「これをすると損をするからやめよう」と学習される材料が無いのだから。
雰囲気にのまれず、可及的速やかに言葉の本質をとらえ、問題ならばその場で追及する。難しいけれど、後で気が付いて地団駄を踏んだり、気が付かずに自分自身に被害が生じるよりは良いのかなあ、と。
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