残念に思うけど対象事案そのものには謝らない「謝罪」というもの

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先日の毎日新聞のスペシャルなやらかし事案。取材と称した捏造、創作(何度となく指摘している、プレスとオピニオンをごちゃまぜにした超良い例)が暴露され、毎日新聞が陳謝した件。ただ、指摘の通りその文面を読みなおすと、やらかした事案を反省し、謝罪しているようには読めてこない。

以前、小学館のスピリッツで編集長が記した謝罪文のようなもの、その時に用いた表現「ヘイポーの謝罪文」的な感は強い。


「誤らない謝罪」という言葉そのものは今回初めて知ったのだけど、概念としては随分と前から認識していた気がする。要は第三者から見て反省している、誤っている、ごめんなさいをしているように見えるのだけど、実のところやらかしたこと自体には何の反省も取り消しもしていない。殴っておいてその暴力行為そのものを反省し謝罪するのではなく、殴ったことで相手が痛いと思っていたら申し訳ないと考えている的な感じ。また、その手法を用いることで、本来被害者である側に寛容を強要したり、世間一般にはむしろ被害者側が悪いかのようなイメージすら与えてしまう。

詭弁の方法論の一つでもあるのだけど、その時はすかさず「そうではなく行為の本質を聞いているのです」と本来指摘されるべき軸に軌道を戻す必要がある。そうでなければ加害側が本来正すべきところがスルーされてしまう。

意図の上での悪意がこのような詭弁で説明されると、いつの間にか単なるミステイクとすり替えられ、悪意に対する責任がうやむやになる。そしてそのごまかしが上手くいけば、当然悪意に対するペナルティは無いのだから、同じようなことが繰り返される可能性は桁違いに高くなる。なにしろその部分では「これをすると損をするからやめよう」と学習される材料が無いのだから。

雰囲気にのまれず、可及的速やかに言葉の本質をとらえ、問題ならばその場で追及する。難しいけれど、後で気が付いて地団駄を踏んだり、気が付かずに自分自身に被害が生じるよりは良いのかなあ、と。

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このページは、不破雷蔵が2016年2月28日 07:48に書いた記事です。

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