僕も小学校5年の時
— 世田谷凛@編入狙う (@mikkakanntetu) 2016, 3月 8
教師「廊下を走って女の子に怪我させたろ?」
僕「やっていません」
教師「被害者の女の子がお前だって言ってんだよ!」
僕「わかりません(半泣き)」
教師「親と謝りに行け、いいな」
その後、同名の別人の起こした事件であったと判明するも僕へのいじめの一因となった。
@mikkakanntetu 僕も相当怖かったし、教師に凄い剣幕で言われて認めてしまった。その後教師から謝罪はあったがヘラヘラしながら「ごめんな」という誠意が全く感じられないものだった。まして今回の広島の事件は進路に関するもので自殺した方の絶望は筆舌に尽くしがたいものだっただろう
— 世田谷凛@編入狙う (@mikkakanntetu) 2016, 3月 8
トリガーとなる万引きの履歴ミスとそれが原因らしい事案については、色々と逐次動きがあるようなのでそれはさておくとして。その話がきっかけで、子供時代における教師からの理不尽な指導なり強要などの体験話が語られている。どれだけ事実なのか、あるいは事実であったとしてもどこまでがそのまま本当の事なのか(記憶違いや他の事案との混ぜ合わせがなされている可能性もある)精査は難しいので「そういう話もあるのだろうな」的な部分に留めるとして。
以前言及したこともあるのだけど、ある程度物心がついて、自分と周囲の領域が認識できるようになった、自己を確立することが可能となる小学生、さらには中学生ぐらいまでは、学校と自宅が世界のほぼすべての領域となる。インターネットが浸透した今現在では情報を取得してその先の世界を知ることもできるけど、リアルとして足を運べる機会は滅多にない。例えるなら、周囲を山に囲まれて行き来がほぼ不可能な山奥の、人口が数十人ぐらいの山村にずっと住んでいる感じ。
そしてそこには神様のような存在がいる。自身にとっては先生や保護者がそれに該当する。絶対権限を持っていて、たとえそれが理不尽なこと、不可解なことでも、従わねば生きていけない、今後どうなるか分からない、無限の不安があるため、従わざるを得ない。生物の本能としてその神様の語ることはすべて事実であり間違いが無く、理不尽さを感じることなく信奉しなきゃならないってのがあるのだけど、ある程度自我を有してくると、その理不尽さから湧きあがる葛藤が生じてしまう。
そのような存在に自分を否定されるような、無実の罪に問われたらどうなるか。自分の将来を左右する偽証を刻まれそうになり、何度も何度も否定しても強要されたら、どれほどの絶望を覚えるか。
万引き冤罪自殺事件。これはやりきれない。私も中一の時、担任に「×月分の給食費が未納」と身に覚えのないことを言われたことがあった。確かに給食費袋にいれて提出したと告げると、担任は「お前は、給食費袋を提出する時、中にちゃんとお金が入っているのを確認したのか?」と訊く。そんなことはして
— 三一十四四二三 (@31104423) 2016, 3月 9
いない。黙ってうつむいていると「お前は給食費袋は出したかも知れないが、肝心のお金が入ってないのだ。...抜いて小遣いにしたのではないのか?」
— 三一十四四二三 (@31104423) 2016, 3月 9
と詰め寄る。私は何も言い返せない。何も悪いことをしてないのに、冤罪の圧力が言葉も気力も奪っていくのだ。そして身体が震え涙が止まらなくなる。
そんな私の様を見た担任は「その涙は真実の涙だ!何も言えなくとも身体が真実を示している!お母さんに正直に言って、もう一回給食費を貰ってきなさい」というのであった。
— 三一十四四二三 (@31104423) 2016, 3月 9
私は直後に立ち直り、校長に直訴し、給食費を調べ直してもらい「何かの手違い」であることがわかった。担任の謝罪はなかった。
保護者から見れば広い世界の中での、長きに渡る自分の人生におけるほんの少しの時間を費やした一部の事案に過ぎないし、教師からは数十人の生徒のうちの一人に対する挙動でしかない。しかし生徒自身にとっては狭い世界の中における、神に存在を否定された信者のような立場におかれたのと同じ。存在を、今後の人生を否定されたのと同じ認識をしてしまうかもしれない。
子供にとって世界は大人が思っているよりもとてつもなく狭く、そして保護者や教師は絶対的な権限を持つ神に等しいものがある。だからこそ保護者や教師は、その立ち位置を再認識し、むやみやたらとその権限を振り回し、軽率に振る舞ってはいけないのだな。
コメントする