自分が不安だとしても、それを他人に押し付ける必要はありません。「貴方もそうでしょう」「君も不安に違いない」と不安感を他人に共有させる行為は、実のところ「自分だけではない」との環境を作り、自分の不安を減らしたい願望の表れでしかないのです。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年3月10日
色々な状況、経験で不安を覚えることがあっても、それを他人に押し付ける必要は無いし、それをしてはいけない。自分が風邪を引いたから、他人に移すために駅に足を運ぼうするようなもの。結局のところそのような行為は、他人も自分と同じ目に合わせてやろうという足の引っ張りであり、そうする事で自分の境遇と同じ人を増やし、「自分だけでは無い」との環境づくりをして、相対的に自分の不安を減らしたいという、自分勝手な行動の体現化でしかない。
良い物事との遭遇、ここちよい体験は他人にも知らしめて、その満足感を共にしたいという「喜びのシェア」の気持ちは誰にでも湧き上がる。それと仕組みは同じだけど、方向性はまったく逆。いわば「不安のシェア」「不幸のシェア」行為と表現できる。ただしそれは自身の罪意識をもたらす可能性があるため、自己の責任回避が無意識に働き、「教えてあげている」との善意にすり替えていることになる。美味しいケーキをもらったので弟と半分ずつ食べようでは無く、他人から盗んできたケーキを自分一人で食べると自分だけが怒られるので弟に半分差し出そうとか。
不安を覚えたら一人きりでこもるべきではないとの意見もある。確かに不安の心境は基本的に個人から想起するもので、そのままではぐるぐるとマイナススパイラルに落ち込み、そこから脱出できなくなる。その解決法として、他人になすりつけるというのは一番簡単で、誰もがすぐに実行できるようなもの。
そのような場合はシェアをするのではなく、他人に安寧や幸福のシェアを求め不安を打ち消そうとしたり、自分の状態の回復の手立てを相談したり、「お前も不幸になあれ」的なシェアでは無く、不安な気持ちを打ち明ける・聴いてもらうのが正しい方向。
例えるなら人生相談とか占い師への占い依頼のようなスタイル。これはそれそのものを行え、という意味では無く、単に語り手と受け手の関係としての説明。誰も占い師に「自分は不幸なのであなたも不幸になるべきだ」と相談をする人はいないよね。
あとは「まあいいか」の精神。タイ語で「マイペンライ」。植木等先生の「そのうちなんとかなるだろう」でもいい。
昨今のさまざまな「運動」の中で、多分に自分は不幸だから他の人も不幸になるべきだ、自分は不安に思っているとか、お前たちもそうだろう、そうに決まっているという姿勢が強く感じられるものを目にしているので、むしろ「自分は不安に思っているのだから何をしても許される。そしてその不安は絶対に終わるものではないのだから、自分は王侯貴族なポジションをずっと維持できる」という、不安のシェアを悪用する筋合も見受けられるようになったので。
不安はシェアするためのものではなく、解消するためのもの、あるいは穴を掘って埋めてしまうもの。まぁ、確かにシェアの方が楽ではあるし、それを使ってわがままができるのなら、その方が良いという考え方もあるのだろうけど......。
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