「やりがい」vs「賃金」の件で「やりがいを与えれば賃金は低くても構わない」的なお話。そのような事案の場合、大抵「やりがい」自身も存在していないのですが。加え、「精神力、信奉心があれば訓練も兵器性能も凌駕できるはず」とする戦中の発想とどこが異なるのかな、と。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年4月5日
某社の外注新人研修周りの騒ぎで出てきた話の一つとして、「やりがいがあれば賃金は低くても良しとすべきだ」的なことを肯定するかのような論説を目にしたので、覚え書き。「やりがい」を「賃金」の代替手段として、賃金を出す側が主張する場合、大抵はやりがい自身も存在しておらず、低賃金の言い訳に用いられているに過ぎない(ちなみに逆のケースとして「やりがいがあるので低賃金でも構わないからやらせてください」と主張してくる場合、大よそはあまり時間が経たないうちにその仕事はいい加減になり、賃金引き上げを要求してくる。例のラーメン関連の漫画の、ボランティアに係わるフレーズが有名)。
何かお金を汚いもの、忌むべきものとする認識が根底にあるのも一因なんだろうけど。お金って色々な評価や価値を画一化し、推し量れるツールになのだから、それが低いってことは、評価されていないってこと。
加えて、「賃金低くてもやりがいがあるからいいでしょ?」的な主張は「精神力、信奉心があれば訓練も兵器性能も凌駕できるはず」とする戦中の発想と何ら変わりがない。精神力や信奉心...愛国心が発揮されるのは、兵器性能や訓練が他と同等レベルになった上での話。
一定水準の賃金との前提があり、はじめてやりがいのあるなしが判断に影響を与える。賃金の水準からのマイナス分をいくらでも言葉だけで盛り込める、基準があいまいな「やりがい」で上げ底をする手法は、あちこちで当たり前のように使われているけれど、正直、弊害でしかない。
そしてその「やりがい」の一要素には将来性、未来への展望も含まれる。「今は苦しくても、将来もっと楽になる、自由度が増す、色々な選択肢が増える」、この希望があるからこそやる気も出る。それすら否定する界隈が多分にある中で(先行記事の「脱成長」が象徴的)、「やりがい」云々ってのは、かなりの無理筋。
「賃金でうるさく言うな、やりがいを与えているのだから。自分達も似たようなものだった」とする方にお伺いしたい。貴方達が今の若年層位の歳だった時、どれほど未来への展望があったか。その時に貴方達を指導した大人たちは、「世間一般は明るい、期待が持てる」という未来を語ってくれたか。それと同じことを今の貴方達はしているのか。その実現のために自らも努力を続けているのか。
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