よく「いい話だから嘘でもいいじゃない」とか言う人いるけど「作り話を実話と偽ってる時点で、道徳のモデルとしては失格」だということに何故気づかないのかと不思議になる。 / "江戸しぐさはなぜ消えない:日経ビジネスオンライン" https://t.co/nRd9l2UsuT
— 佐藤大介 (@dadaemonsan) 2016年4月8日
厨二病的な妄想設定が前提の「江戸しぐさ」に関して大臣の交代に伴いピークは過ぎた感があるのだけど、今なおあれを信奉している人は多いし、子供に事実として伝えようとする大人も少なくない。それらの大人の言に耳を傾けるに、大よそが上記の通り「良い話なのでウソでも別にいいじゃん」的な開き直り的言い訳がある。道徳周りの話では特にそれが前面に出てくる。
ただ、よく考えてみると道徳という倫理観、社会通念を教える場において、その教材に「実話と偽る作り話を、実話として使う」という非常に矛盾した構造の奇妙さには、やはり首を傾げる。
一休さんの話は事実を元にしている部分もあるけれど、創作であることはすでに分かっているし、あれを事実であると強弁する人はいない。桃太郎の話も色々な学説はあるけれど、古代日本に鬼が居て、大きな桃の中から子供が生まれ、猿や犬やキジと意思疎通ができ、鬼退治をしたという話を実話であると認識する人はいない。またそれを主張する人もいない。けれど江戸しぐさは違う。未だにあれを事実であるとし、推し進めている団体による物語には違いない。自分の都合の良い内容ならば、それがウソでも事実として伝えてしまって構わないという姿勢は、直前の記事【「分かりやすいと正しいは別物」だけど「分かりやすくて信じたい」を信用しがち」】と近しい部分があるのかな、という気はする。自分向けか、他人向けか。ベクトルの違い。
何度か書いた話だが、大学1年生向けの演習で「少年犯罪は実は増加も凶悪化もしてない」という話になったときのこと。受講生から「少年犯罪の増加や凶悪化が嘘でも、それが防犯意識を高めるのなら結果オーライではないか」という趣旨の発言が出てきた。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2016年4月9日
その発想と、この記事に出てくる「江戸しぐさ」の話は共通している部分がある。つまり、起源となる話は嘘であっても、それが社会の役に立つならそれで良いではないか、という考え方。/それは偽りの伝統 教材に残り続ける「江戸しぐさ」 https://t.co/XjWLq96Cct
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2016年4月9日
でも、これらの考え方では、「嘘だと知りつつも、社会の役に立つという理由で
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2016年4月9日
それを信じているふりをする層」と「それを本当だと信じる層」という二つの層が存在することが暗黙の前提となっているように思う。その点がどうにも不健全な感じがする。
これは非常に優れた、ああなるほどと思わせる指摘。内容そのものはちょいと前に話題に登り、当方も本家サイトなどで指摘した、「若年層による犯罪は増加しているって騒いでるけど、そんなことないよ。絶対数も対人口比率も減ってるよ」という話。ウソも方便って言葉があるけれど、その方便を詭弁として、他にマイナスな影響があるようなものに使ってはいけないのだよね。
この表現も以前用いた記憶があるのだけど、例えば「江戸しぐさ」が「銀魂」の世界の中で展開され、それが明言されていれば、何の問題も無い。「銀魂」は江戸時代末期の世界観がベースになっているけれど、無論色々と混じった作り話、漫画であることは誰もが知っている。中には事実と勘違いして覚えてしまう人もいるかもしれないけど、「あれって漫画の中の作り話でしょ」と指摘されれば、ああそうかと納得できる。「銀魂でやっていたことだから歴史上の事実だもん」と主張する人は、まずいない。
目的のために手段を選ばないということなのかもしれないけれど、その手段の中身次第では目的はおろか周辺界隈までマイナスの影響を与えたのでは、全体としては悪影響の方が大きいと思うのだけどね。
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