「ジャーナリストは社会の監視者でならねばならない」という使命からして大よそ筋違いなのですが、それを頑なに信じる所かそれがさらに先鋭化して「何が何でも、どのような手を使ってでも国や社会を叩かなければならない。そうでなければ存在意義は無い」的な思い込みに走ってしまったので、
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年4月25日
今の「ジャーナリスト」と自称する方々は多分に、反社会的な方向性を持つようになってしまったのでしょうね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年4月25日
従来型の大手報道界隈にもんやりとした形で覚えることができる、選民意識的なものや反社会的行動・姿勢を賛美する風潮。以前「東大紛争時の反体制の思考がそのまま根付いた形」とも表現したけれど、もう少し状況は複雑なのかもしれないなあ、と風呂上がりの頭の中で色々と考えながら書き連ねたもの。いくつか誤字や意味の上での齟齬が生じている部分もあるけれど、大よそ頭の中のパーツがある程度まとまった感はある。
社会を、政府を、国を監視する立場にジャーナリストはあるのだし、それを行うものが報道、ジャーナリズムに他ならない的な話は、特に著名な関係者や報道界隈にある人の言として耳にする。社会的大義を背負った、崇高な立ち位置にあるかと誇り、声高らかに宣言しているような。自己陶酔に近しい。
庶民の安寧を守るための監視者としての立場が、今や庶民の安寧を打ち壊す立場になっている始末。しかもタチが悪い事に、あくまでも自らは善行を成していると頑なに思い続けている。悪意の無い悪業ほど始末に負えないモノはありません。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年4月25日
当方の思い違いの部分もあるかもしれませんね。しかし「私達記者は正義。がんばる」「事件を記憶に残させるためには実名報道」等独善行動の数々を見るに、該当するケースは多分にあると思えるのです。「報道の自由度ランキング」もそうですね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年4月25日
その監視の目的、それが社会的意義のあるものとして認められていたのは、ひとえに不特定多数の庶民にとってプラスとなるから。それが今や手段と目的が入れ替わり、さらに監視が叩きに姿を変え、実力行使の遂行まで権限として与えられているかのようなふるまいをしている。ペンは剣よりも強し。それが不特定多数を誘導する、指揮者の指揮棒のようであるのなら。そしてそれは現状で、多分に濫用されている感は否めない。
人の社会的思考の成熟化、ネット普及に伴う情報価値の多様化と、取扱いに係わる人類史上かつてないほどの変貌。それら社会環境の変化に対応できず、その変化、自らの相対的価値の低下を「報道の、自由の危機」「社会は抑圧されつつある」と誤認しているのでしょう。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年4月25日
社会の監視という崇高な使命を有する自分達の地位の低下を説明するのに、社会の変化を理解できない限り、それしか理由が見つけられませんから。周りが先に進んで相対的に自分達が立ち遅れたのではなく、周りが悪化したと考えるのが分かりやすく、また自分を否定する必要もないので受け入れやすいのです
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年4月25日
無論、過去においても社会の変化はありました。けれども、情報周りに関する前世紀末以降、特にこの10年ほどの間のスピードは、過去においては(乱暴に比較すれば)半世紀、一世紀ほどの加速感があります。人の数世代間に生じる位の動きが10年で生じたと表現しても過言ではありません。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年4月25日
だからこそ、その変化のスピードに気が付き、追いつこうと努力をしないと、あっという間において「枯れて」しまいます。ジャーナリスト、報道界隈は特に情報と密接な関係があるため、とりわけそのスピード感に翻弄されているのではないか、そう思わざるを得ないのです。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年4月25日
方向性や振る舞いそのものは、以前から変わっていなかったのかもしれない。多分に尖鋭化はしているのだろうけど。一方で、その振る舞いのひずみ、おかしさが顕著化してきたのは、その行為が可視化されるようになってきた、検証されることが容易になったというのが理由の一つ。
そしてもう一つは、正直、シンプルに表現すると、社会全体の、時代の変化が加速度的なものとなり、その流れに追いついていないがための障害が生じているのだろう。時速40キロしか出せない、前世紀前半のクラシックカーを操り高速道路に乗りこみ、周囲の車に邪魔者扱いされたり、高速道路交通警察隊に取締りを受けても、自分達は正しいと逆切れする。しかもその車はろくにメンテナンスもしておらず、すぐにエンストしてしまう始末。
昔からこの類の世代間ギャップ、社会の流れによる社会観のひずみは存在していた。「今どきの若いものは」とかが好例。しかし指摘している通り、今世紀に入ってからの情報界隈の進化は凄まじく、これまでの時代ならば一世紀ほどかけないと生じなかったようなスピード感のある進歩が、10年やそこらで発生してしまっている。情報界隈に限れば数世紀にも及ぶかもしれない。
本来は数世代に渡って起きる、それ故に世代間のギャップも細切れとなり、少しずつ生じたものが、10年間に圧縮されたため、数世代分がまとめて生じることとなった。とても雑な表現ではあるけれど、それこそ江戸時代の瓦版を書いている人が、その常識や知識のまま、現在の報道界隈に足を踏み入れるようなもの。あるいは今現在でもチョンマゲをして帯刀することが正義だと信じている、的な。
だからこそ、「私達記者は正義。がんばる」なる言葉も平気で出てくるのだろう。自らの大昔の常識が通用しない今の世の中は、時代の流れによる正当なものではなく、自分の信じている軸とは異なる、悪しき世の中への変貌のさなかにあるもので、自分達が正さねばと認識しているのだから。
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