自己評価が低く、自分を大事にしない態度を周囲に見せ続けると、周りの態度もそれに合わせて「あ、こいつにはナメた態度をとっていいんだ」「こいつは尊重しなくてもいいんだ」という雰囲気になってくるんだな...と。自分の環境は自分が作り出しているのかな...とハッとなり、ちょっとショックでした...
— Pulmo (@pulmo_shop) 2016年4月23日
あまりにも自信過剰に過ぎると周囲に迷惑をかけるばかりで困りものではあるのだけど、逆に自分に対する評価を低くし過ぎて、もったいない状態にある人も少なくない。元々完全に適正な自己評価などできるはずもないのだから、ある程度はぶれたって仕方がない。そして評価しようとしまいと自分自身に違いは無いのだから、だったら自分の実力が少しでも体現化できるように、それなりの評価、持ち上げをするのがお得ではある。
他方、自分への評価があまりにも低すぎると、その評価の低さに自暴自棄となり、それを第三者にも披露してしまう、その事で少しでも自分の心の重み、傷みを希薄化しようとする動きに出てしまう。気持ちの共有化がマイナス方面で働いてしまう。
ただそれを続けていると、第三者からはその通りの存在と認識されてしまい、相応の対応しかしてもらえなくなる。「自分はこうだ」との仮面をかぶり続けていると、いつの間にかその仮面で他人は自分を判断してしまう次第。ソーシャルメディアのアイコンとか成り切りの対応とかも良い例。個人に対する評価は、その個人が対外的に発する情報の総和で判断される。その情報が「自分は悪い、ダメだ」ばかりならば、そのような人物であるとみなされても仕方がない。
心理学的な話として、自己暗示で自分に対するポジティブな想いを語り続けていると、実際にそれが体現化する、少なくともし易くなるというのがある。少なからずは対外的な評価も作用しているのではないかな。
合同出張編集部で、他誌でボロカスに言われてる女の子がいた。で、暫くしてその子が僕のところに来たんです。読んでみると未熟ながら光るものがあったので優しくそう伝えると、女の子が小さく「嬉しい」と呟き、泣き出したんです。
— ヤングマガジンのスズキ (@ym_suzuki) 2016年4月25日
結果「スズキが女の子を泣かしてた怖い」と話題に。結局、人間は顔。
@ym_suzuki 真面目な話、欠点だけを指摘するのは編集者の自己満足行為であって、内実は「自分はあなたの可能性や武器を見つけられませんでした」という降参宣言だと思う。それでマウントとった気になっている編集者はきらいです。
— ヤングマガジンのスズキ (@ym_suzuki) 2016年4月25日
あとあえて付言するなら、来世は優しい顔になりたいです。
これと似たような話として、たまたま偶然に目に留まったのがこちら。自分に対する自身への評価は自信につながるけれど、第三者からの意見は時として桁違いな影響を及ぼす。ましてや該当分野の専門家的な人からの声なら、クリティカルヒットもの。神様みたいな存在からの、神の啓示的なものだからね。
今件では一応専門家としての編集者の行動が例として挙げられているけど、立場を変えると色々と想起できる場面が浮かんでくる。作品を読み終えた後に去来した感想を出版社や作者に送ってみたり、商品を購入した後の感想をコメント書きしたり。弱点、短所はあくまでも「今後の改善」を期待した上で言及した方が、相手にも、そして自分自身にもプラスとなるような気がする。欠点だけの指摘は、語られている通り「自分はあなたの可能性や武器を見つけられませんでした」との宣言になるのではないかな、と。
もちろんどうしようもないケースとか、可能性を示唆してもそれが体現化することでもっと損失が大きくなる場合もあるから、一概に欠点の指摘がすべてダメというわけではないのだけどね。
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