「作品と人格は別物だ」という言葉を「作品を作る側」が悪用して「いくら人格面でおかしくても作品さえ良い物が作れればいいんだ」という免罪符にしてしまう風潮は非常によろしくない。その言葉を使った時点で、もうその人は製作者として大きく格が落ちてしまう。
— かんぶれ(cannedbread) (@_cannedbread) 2016年5月4日
「作品と人格は別物だ」という風潮、もう止めにしませんか。この言葉がなまじ説得力のありそうな響きを持つからこそ、一部の作家が人格の破綻を糊塗してしまい、結果として作品そのものの評価を落としてしまう。「人格を磨かないと作品も評価されない」という認識を持つべき時が来たんじゃないですか。
— かんぶれ(cannedbread) (@_cannedbread) 2016年5月4日
これは先日の「リソースが足りないときは工夫して何とかするってのは理解できなくもないけれど、それをリソースを提供する側が語ったらオシマイ」にも通じる話。
確かに作品を創る当事者と、その当事者が織りなす作品を100%同一軸に見るのは問題がある。人格的に破たんしている人でも素晴らしい作品を次々に送り出す人もいれば、神のような優れた人柄を有する人がすべて押し並べて優れた創作物を創り上げるとは限らない。さらにいえば創作は得てして一般の人の軸を超えた先に手が届いた人が、相応の優れた作品を生み出すケースが多いので、日常の行動様式ではアレな状態だったりすることが多々ある。
無論先日言及した【自分が楽にできることが長所であるとの考え方】にもあるように、日常のライフスタイルを人並みに維持したままで、楽にできることを長所とし、さまざまなステキナイスな作品を送り出す人もいるけれど。
他方指摘のある通り、作品の質さえよければ人としての振る舞いはどうでもよい、乱暴狼藉を働いても構わない、その類の免罪符を創り手側が乱発するのは行儀のよいお話では無い。ちょっと具体例を挙げれば分かるのだけど、ベストセラー作家が痴漢行為や窃盗行為を繰り返したり、交通事故や脱税事案を頻発させていたら、そしてその件について作家自身が「自分はベストセラーを生み出しているから、これ位問題ないだろう」とふんぞり返っていたら、どう思うだろうか。作品個別の品質には変わりはないけれど、作品を手にするか否かの判断の際に、色々と考える余地が生じてしまう。それは作品そのものにとっても、その作品の中身を愛するファンにとっても、不幸な話に違いない。
「作品と人格は別物だ」は、確かに一面では真理であるかも知れない。けれど、それを「作る側」の人間が言ってはいけないのではないでしょうか。「お客様は神様です」を「お客様」の側の人間が言ってはいけないように。
— かんぶれ(cannedbread) (@_cannedbread) 2016年5月4日
「お客様は神様だろうが!」と威張り散らす客が「お客様」としては到底扱われないのと同じように「作品と人格は別物だろうが!」と作者の側が言い出して威張り散らすと、もうその人は一人の作家としてリスペクトされることは無いでしょう。
— かんぶれ(cannedbread) (@_cannedbread) 2016年5月4日
例えも含め、大よそ指摘の通りで。昔は作り手が表舞台に出てくる機会はさほどなく、あったとしても実は別人だったり、対外交渉専用の代理人的な人が出てくることも多かった。でも最近ではブログやソーシャルメディアの普及で創り手と受け手側のハードルがガッツリ下がったため、直に創り手の動向を見ることができるようになった。
作品制作者に聖人たれというのは無理な話。むしろ普通の振る舞いをかいま見れるのは、微笑ましいし、嬉しいし、よりファンとしての気持ちがふくらんでいく。ただ、自分の振る舞い(とりわけお痛方面)への指摘に、作品を免罪符にしてしまうと、やはりファンとしてはがっかりしてしまうってのは、多分にある気がする。一般論としてだけでなく、実体験を何度かしている身としても、つくづくそう思う。
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