だから、「逮捕」は仕方ねぇんだって。
— 和田みさき (@wada_misaki) 2016年5月6日
そのあと起訴するかどうかを検察が検討して、不可抗力なら不起訴処分になるし、さらに審理が必要なら裁判して無罪になることも多い。
故に、逮捕の段階で「どこそこのだれそれ」って報道すること自体やめないとダメなんだよ。
まったく悪くなくたって逮捕はされる。
— 和田みさき (@wada_misaki) 2016年5月6日
そのあと、送検→起訴→審理を経てようやく悪いかどうかが判断されるの。
逮捕された段階で犯罪者のような扱いをする報道機関の姿勢を改めてもらわないことにはこういう誤解は解けない。
「逮捕」は警察等の管理下に置いて逃亡や証拠隠滅、場合によっては被疑者の自殺を防ぐ(多分今回の逮捕理由は被疑者の自殺防止)のが目的で、けっして懲罰のために自由を束縛するものではないのです。
— 和田みさき (@wada_misaki) 2016年5月7日
だから、社会一般(というかマスコミだな)の「逮捕」への認識を改めないとだめ。
具体的指摘は避けるけど先日発生した某交通事故で、加害側とされた運転手の名前が年齢や職業込みで伝えれ、色々と物議をかもすことになった。裁判の上ではどのような解釈がなされるかは不明だけれど、現状で判明している状況を見る限りでは、運転手側の責務は無いように見える。まるで被害側とされている自転車に乗っていた側が当たり屋的な感。
で、加害側が逮捕されたこともあわせ、逮捕の段階で実名が伝えられて事実上の多分な制裁が加えられていることに、首を傾げる次第。「逮捕」の必要性とかは語られている通り。逮捕そのものが罰則、罪の確定によるペナルティって訳では無い。その場で「お前有罪、死刑」「俺が法律で裁く人」ってのはどこの中世なり未開の地なり、ヒャッハーな無法地帯なのか。
実名報道に関しては「受け手の記憶に刻むため」との大義名分であると伝える側は強調している。それが報道としての使命であるとも。これはこれまでに繰り返し確認している話。他方、実名報道で対象者が実害を被る事、実害を与える権限を報道側が有しているのか否かに関しては、何の説明もない。大義名分を果たすための尊い犠牲とすら言いかねない。
また、「実名で無いと受け手に与える印象が薄い。事件の重要性をかんがみれば、実名報道で印象を深くさせるのは当然だ」との説明は、見方を変えると、伝え手側の表現力不足を意味するものともなる。実名で受け手への印象が深くなるのは事実だけれど、それ以外に手立てはないの? 的な。すべての料理に万能調味料をしこたまぶちこんでしまえばそれでオッケーのような雰囲気。
インターネットの普及によって情報の価値が大きく変化した現在では、実名報道が与える影響は桁違いに拡大している。特に実名報道においては、関係者へのデメリットが増幅されやすい。「忘れられる権利」云々ってのもその流れ。そのような状況下で昔同様に、実名で伝えるか否かを実質的に報道内部だけで判断する現状は、権利の濫用にも等しいような気がする。そしてもとよりそのような判断を成す権利を持つ資格があるのか否かも疑問だし。
ペンは剣よりも強し、という言葉がある。これは気狂に刃物と一対になる言葉ではないか。武器になるような道具を扱うものは細心の注意と自制が必要。前者のみで勇者を気取ると周りから見て後者になる事も少なくない。マスコミやジャーナリスト、表現者は自薦、公認を問わずこの意味を噛み締めて欲しい。
— ちゃっくふぃんりー (@kiritonz) 2016年4月22日
誤報は10回報道されても、訂正報は1回しか報道されない。
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年5月7日
訂正報の徹底の、徹底的な不足こそが、「よかれと思ってしでかす誤報」を醜悪なものにしてると思う。
昔と比べてより強く、鋭くなった刃物のような実名報道、それを取り扱う報道サイドの配慮や技能の低下。子供が大ナタを振るっているようなもので、傷つく人は増えているし、与えられた傷も深いものとなる。そして振るう側は自らの成したことへの正当性をさらに強調する。反発が強まるのも当然の話ではないかな、と。
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