コンビニの麺類は、毎年まいとし「おいしくなった」といっているのだが、去年までだってじゅうぶんにおいしかったのに、これ以上おいしくなってしまったら、あまりにもおいしすぎて、その猛烈なまでのおいしさを受け止めきれない人類には、あるいは有害なものとなってしまうのではないだろうか。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2016年5月8日
コンビニの麺類と、コンビニのおでんは、毎年おいしくなっているのに、それでもまだ、そこにはおいしくなる余地があるというのだろうか。そのおいしさの頂点は、いったいどこにあるのだろうか。人類の欲望は果てしなく続き、人びとが追い求める理想郷はどこまでも遠い。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2016年5月8日
これはまさに大いにうなづかざるを得ない話。確かに麺類やおでん、特に季節性の強いおでんは毎年のように「今年は去年よりいっそう美味しくなりました」的なキャッチコピーと共に、さまざまな改良点がずらりと並べられていく。ただ当方のようにチェックを常にしていると、去年や一昨年、それより前のリリースや記事が頭に思い返され、以前もこんな言い回し使ったよね、的な感じになる。
いや、確かに多分に美味しくはなっているのだろう。ただ、食品って概して美味しさを数量化できないので、単純比較は不可能なんだよね。昨年のおでんを保存しておいて、今年版と食べ比べとか、無理でしょ? 味覚に敏感な人でないと、あるいは劇的な変化でないと、明確な違いを見出すのは難しい。開発する時点では、以前のものとの比較検証をしているのだろうけど。
ボジョレーなんとかというお酒も、今年は●年に一度の当たり年とかいったコピーを使うことが多いけど、毎年当たり年やん的な感もあったりする。結局はそれらも合わせて、大よそはプロモーション用の枕詞みたいなものになっているのだろうな。
人の欲望は尽きるところを知らない。欲しいものが満たされたら、さらに欲しくなる。欲の袋は一杯になると、さらに膨張を続けていく。これは麺類やおでんに限った話では無い。それこそが人の進歩発展前進のエネルギーではあるのだけど、昨今のように情報の様態が変化し、時系列的に蓄積されているものを容易に精査出来る時代となると、過去のおでんや麺類を見返すにつけ、本当に似たような心境を覚えてしまう。ひとはどこまでおでんや麺類の旨味を追求しなければならないのだろう、とね。
究極の旨味はガンダーラにあるのかもしれないな(違う)。つまりインドだ(もっと違う)。
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