信者系ビジネス界隈の教祖的な立場にある人は、論理的な手法で経典部分の間違いを指摘されると、「あれはうそ。信じちゃダメだよ、みんな」と切り替えし、結束を固めるのですね。この発想はありませんでした。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年5月10日
先日社会保険系のデータを基にした当方の記事が引用されちょっと広まった時の話。セルフサーチをしてその広がり具合を確認していたところ、奇妙な反応があった。このデータはウソだから信じちゃダメ、よくあるトリックだよというもの。
単なるつぶやきなら妄想の領域で「お前が思うのならそうなんだろう、お前の中ではな」で終わるのだけど、どうも語り口が不特定多数への周知を前提としているらしい。で、そのツイートへの反応を見ると、思った通りで信者的な人達の「そうですよね」的な反応。
この一連のやり取りを見て、先の震災での放射線周りの話とか、地震そのものの問題とか、最近では安保法案絡みの件とかでも良く見かけた、いわゆる信者系ビジネスの構造の一端を改めて......というかはっきりと認識出来た次第。
要は、信者と教祖を結びつける教典的な内容に関して、それをくつがえすような話、往々にして教典そのものがまがい物、事実でない事なのだから、事実などが提示されると、教祖側としては困ってしまうことになる。自分の権威が損なわれるから。集客エネルギーが無くなってしまう。そこで「あの話はウソであり、教典的な内容こそが事実である」とし、さらに結束を高める次第。災い転じて福となす、みたいな。この類の信者系ビジネスでは、それに従う人は多分に「自分達は他と違っていて騙されていない、優れている」といった選民意識があるから、この類の切り替えしは非常に効果的。
また逆に、信者側が「事実だといわれてますけど、ウソですよね。教祖様が語られている教典こそが事実ですよね」と聞き返してくることも多々ある。教祖側としてはノーとはいえないし、そのやりとりを不特定多数に見せることでさらに結束を高めることができるから、願ったりかなったりとなる。
要は事実は必要ない。信者間における、教祖が呈する真実があれば、それが信者にとっては事実となってしまう。非常に怖い話には違いない。他方、教祖にとっては自分が神的な存在になれるのだから、これほどステキで心地よい状態は、絶対手放したくないと思うのはものの道理。まぁ、イエスマンばかりが残っている企業と同じようなものなのだけどね。
この構図は恐らくずっと前からのものだったのだろうけど、インターネット、特にソーシャルメディアの普及で、桁違いに加速化するようになった気がする。表現を変えれば、尖鋭化のスピード感。注意が必要に違いは無い。
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