音楽を金払って聴く文化を失った若者の末路が最高に頭悪い感じ出ててやべぇなってなってる pic.twitter.com/pOrDtUPmsD
— ヌヴォルド 択捉ベンソン・石田 (@kusonemissy) 2016年5月13日
これが「コンテンツに金を払わないのが当たり前のユーザー」「あと何年後かの書籍の世界の姿」なのだな......
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年5月13日
先日ツイッターやFacebookなどで話題に登った話。数年前にフリーミアムなる言葉が流行ったように、物理存在で無いものへの対価を認めない、認識しない様式が浸透しつつある。基本無料のビジネスモデルが進んだことに加え、元々形の無いものへの対価を認識しがたい日本に、デジタル様式のコンテンツ文化が普及浸透したのが、その要因だろう。多種多様なデジタルコンテンツに初めて触れ、慣れ始めるプロセスで、無料のものばかりと接していれば、普通は無料との認識をしてしまうのも当然の話。豚肉ばかりのすき焼きを家庭で何度となく食していれば、すき焼きは豚肉で創るものと覚えてしまうのと同じ。
加えて、流通網の発達やスーパー、コンビニの普及浸透がしはじめた頃から言われているのだけど、生産過程を見聞きする、学ぶ機会が少なくなり、店先で並ぶもののが商品として構築する過程を知らない、生産工程を認識しない、学ぶ機会が少なくなったのも一因にあるのかな、と。そりゃ学ばなければ、知る機会が無ければ、理解のしようは無い。便利なのは良いのだけど、その便利さを提供する裏方を知らなければ、空から降ってきたものと思ってしまっても仕方がない。時代の流れの中で進化しつつあるプロセスを知っている大人ならば分かるけど、子供は最初から便利な世の中で生まれ、育っているのだから、知るはずもない。
ただ一方で。この類の話「若年層がフリー感覚に慣れて対価を支払わない」はよく聞くのだけど、本当に昨今の周辺環境で学んだ結果その類の若年層が増えたのかとなると、100%そうであるとも言い切れない気がする。過去の計測データが無いので、そして過去に戻って調査をすることはできないのてあくまでも推測でしかないのだけど、昔から一定率、この類のフリーライダー、それを当たり前とする人たちは存在していて、それが可視化されるようになっただけなのか、さらには中堅・高齢層にも同様の思考を有する人は居るのではないかとか、考えてしまう。
はてブやFacebookコメントによる「意見内容の劣化」、さらにはツイートなども同様の構図で、具象化のハードルが下がったことで、従来は観えなかった、すくい上げられなかったレベルの意見が容易に見える、検索されて抽出されるようになった部分も大きいのかな、という気はする。
無論、ネットアクセスの最初のツールがスマホだった人は、パソコンを使わずにスマホで満足するのと同じように、初期の段階で多数の無料のコンテンツと対面した人は、それが当たり前だと思ってしまうのも多分にあるのだろう。コンテンツ界隈におけるインプリンティング、刷りこみ効果、的な。
給付金にしてもインフラにしても、少しでも心地よい環境が無料、低いコストで提供される事に慣れてしまうと、それが当たり前になり、さらに良い条件を求めるようになる。満足ラインが上がってくる。慣れてハードルが上がってしまうのですね。ましてや、その環境が存在する理由、支えている存在の背景を教えてもらっていないとなれば。
@Fuwarin 昔、ウィンドウズはフリーウェア文化、マックはシェアウェア文化でした。マックだとzipの解凍ソフトすら有料だったのに、特に文句を行っている人は見なかったような気がするけど、近い現象なのかなあ。
— らくからちゃ (@lacucaracha) 2016年5月13日
「対価を払わないのが当然とわめく人」はいるなぁ。ただ、払わない連中も払えたら払うのかもしれないし、払うべきものを払わないことの罪の意識から来る自己正当化が「わめき」なのかもしれない。 https://t.co/bwrqJjxCQj
— 鯛足烏賊/たいあしいか (@Tirthika) 2016年5月14日
webで無料公開してたマンガをまとめて、描き下ろしを加えて販売したら「なぜ描き下ろしが有料なんですか!?無料にすべきです!」ってレビューついてたの思い出した。世も末。
— MAKI (@shmaxion) 2016年5月14日
@Fuwarin コンビニやファストフード店の店員に不相応の待遇を要求する。とかは似たような感じなんじゃ無いでしょうか。一度高度な無償のサービスを受けると、それに甘えるようになると言う意味で。
— 十手くなむ (@JitteCnum) 2016年5月14日
「対価を払わないのが当然とわめく人」のわめきが自己正当化によるとの解釈は興味深い。恐らくはそれが本心って人もいるだろう。かつてのマジコン問題で「自分(の子供)は買えない。でもほしい。買えないのは高いから。だからコピーは許される」と同じ香りを覚える。あの時に遭遇した、無茶な自己正当化理論をさも万物に共通する大原則のように語りかけてくる人達の語りには、狂気すら覚えるところがあった。子供の考えだから、お金がないからとの主張を錦の御旗のように振り回し、それが絶対原則だとして疑わない。まるでオールマイティカードを手に入れたような。
ただ、自分がこれまで遭遇してきたその類の人、あるいは上で引用されているLINE周りでの無料を求める人に関しては、罪の意識はさらさらなく、単に(自分達が思う)正当な権利を侵害されて憤慨しているだけのように読めるんだよね。恐らくは無償の高度なサービスを受けてそれに慣れてしまう、そしてサービスの背景にある作り手側のプロセスを知らないってのが多分にあるのかなあ、と。
あとは取得感の希薄化に伴い、自分が手に入れたものはどのみちホンモノ(物理的存在)ではないのだから、別に価値は無いし、相手もさほど影響はないだろう的な感覚があるのかもしれない。最初のLINE MUSICの話にしても、例えば楽曲すべてに対し、購入ごとに実媒体に盛り込んだ音源が送られてくる仕組みになっていたら、同じような感想はどれだけ寄せられただろうか。バーチャルとリアルの境界線があいまいになると、価値観もあいまいになる。
人は元々何らかのリアクションで自分の行為の、存在のリアリズムを覚え、価値を見出していく。例えが少々飛躍するけど、そして自身にもそんな事があるといいなあとは思うのだけど、例えば宝くじか何かが大当たりして銀行預金の残高がケタ違いに増えてあふれんばかりになったとしても、その数字へのリアリティはさほど大きく無いってことになるのだろう。その口座から何かを購入し、実際に商品がボンガボンガと部屋を埋め尽くしたり、お店の棚買いをして山ほど好きなアイテムをまとめて手に入れたり、今まで手が届かなかった品々を手に取ることで、はじめてその数字のリアルさを覚える。そんな気がする。
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