「オオカミ少年だって本当の事を語る場合もある」 『それが本当か否か、見極めが必要。いちいちわずかな『本当』を得るために多分のウソまで精査しなきゃならないのなら、最初から聞く耳持たないのが合理的ですよ。誰にも1日は24時間しかないのですから』
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年5月17日
寓話「オオカミ少年」(ウソをつく子供)に登場する、ウソをついて村人を困らせていた少年も、一日中ウソをつきまくっていた訳では無い。また、お話の中では最後に少年はオオカミに食べられてしまうけど(話によっては子供では無く羊が食べられてしまう)、もし生き延びていたら、それからもずっとウソをつき続けていただろうか。
話の中で村人が少年の「オオカミが来たぞ」の言を信頼しなくなったのは、ウソばかりだったから。本当の可能性はゼロではないけれど、虚実の確率が高くなるばかりで、対応や精査へのリソース分配が無駄になってしまう。ならば最初からウソと判断した方が、期待値の上では合理性が出る次第。
このオオカミ少年の話は日常のやりとり、ソーシャルメディア上での言及にもいえること。
例え単発の話に信ぴょう性がありそうな、もっともらしい語りであったとしても、その語り手自身が普段から妄言や奇妙な、支離滅裂な内容を言及することが多々あるとしたら、それを事実として受け止めたり、第三者に広めてくのはいかがなものだろうか。普段から妄想話ばかりを語る近所のおじさんが、たまたま本当かもしれないことを口にしたとしても、それを信じるか否かを想像すれば、それがリスキーな話であることはすぐに分かるはず。
ただリアルなやりとりと違い、ソーシャルメディア、特にツイッターでは短文、ひとことでのやりとりとなるため、その語り手の背景にあるものが時として無視された上で伝えられてしまうことがある。ちょっとしたチェックを怠ると、事実のように見えていたことが実はデマやフェイクであり、よくよく調べたら常習犯だった......ってことは結構あるパターン。
多少面倒ではあるのだけど。自分自身もそのような「オオカミ少年」に加担してしまわないようにするための必要なコストと考えれば、アカウント自身の履歴をチェックして信ぴょう性を確かめるのは、決して無駄なこと、面倒なことではないと思うのだな。
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