ネットの文章を読んでいると、実は10年前のだった、ということが珍しくなくなりました。これまで、ネット情報は新しさが取り柄だったけれど、ウィキペディアにもかなり古い記述があります。記述が複雑化しすぎたものは、修正もしにくそう。今後は、「時間」がインターネットを脅かすのではないか。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) 2016年5月24日
年代不明の情報は、限りなく誤りに近くなります。「世界の現在の人口は50億人」というのは、80年代末なら正しいけれど、今は誤り。こうした年代不明の「誤り情報」が、今後ネット上で爆発的に増えるかも。ファイル更新日時は分かるとしても、それだけでは内容の書かれた日時までは分かりません。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) 2016年5月24日
インターネットは情報の蓄積を容易にしていく。物理的な専有がほぼ無くなるので、いくらでも情報をぶち込み保全できる。インデックス化して、いやしなくとも検索を行えば過去の情報は容易に取得し精査が可能になる。これはこれで便利ではあるのだけど。
以前「溜め込んで精査対象となる情報が増えると、逆に全体が雑多となって精査対象となる情報は少なくなってしまう」的な話をしたことがある。外付けハードディスクに自分で撮影した写真を数万枚のレベルで収めておくと、いつどこでどのような写真を撮ったのか、覚えているなんてのはほぼ不可能。日付と場所と具体的な撮影対象を紐付けしても、何を撮ったのか覚えていなければ検索のしようがないし、検索ワードも変わってしまう可能性がある。
さらに指摘の通り、情報が次々に蓄積されていくにつれ、その情報がいつの場面のもので、それが事実だったか否かが精査しにくくなってしまう。「ファイル更新日時は分かるとしても、それだけでは内容の書かれた日時までは分かりません」とはあるけれど、さらに内容が書かれた時間が分っていたとしても、それが正しいか否かの検証までは出来ない。「普通郵便の料金は30年前は7円だったんだよ」と言われても、すぐにその是非をチェックできるかな、というところ(正解は1966年から1972年までの間であり、30年前では無い)。
私は一時期、「今後、インターネットには全人類の知が結集し、誤りは自然淘汰でなくなっていくだろう」と考えていたことがあります。しかし、今はちょっと懐疑的でしてね。「これ、信用していいのか」と迷う情報が増えてきたと感じます。理由は「年代不明の情報が増えた」以外にもあります。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) 2016年5月24日
その昔、ネット上の情報は、書き手がプロか一般人か比較的明瞭でした。でも、今は、どのウェブサイトもデザインが良くなったし、文章を熟読しなければ真偽が分からない、ということもしばしばです。それで、私自身は、新聞などの既存メディアに接する機会が、前よりも相対的に増えてきたと感じます。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) 2016年5月24日
ウィキペディアには百万本超の記事があります。現時点では最新の正しい情報でも、10年経つと、丸ごと古い「誤り情報」になります。それを防ぐには、既存記事を常に誰かが手入れしなければならない。でも、新記事を作るのは簡単でも、将来百万本、1千万本の記事を十分にメンテできるのか、心配です。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) 2016年5月24日
そしてネット上の情報は累乗的に増えていく。利用者が増加しているのだから書き手も増えるし、さらに記録手法が多様化するのだから当然の話。でもその情報が正しいのか否か、どこまで精査ができるだろうか。そしてデザインがへっぽこでもその内容が間違っているとは言えないわけで、見た目で情報の正誤を見極めるのも難しい。
この「昔の情報が正しいのか否か、精査が難しくなっている」ってのは、実はすでに動画や画像で顕著化している。実態を知っている、その方面である程度詳しい人は一目でコラであると分かっても、多くの人には事実のように見えてしまう、ネタとして創られた映像がいつの間にか事実のように広まっている、そんなことも珍しくなくなった。
ジャンク的、ノイズな情報は今後もますます増加していく。情報化社会とはいうけれど、その情報の波にさらわれてアップアップする時代ってのが実情なのかもしれない。そしてだからこそ、権威にすがりたくなり、逆にその権威を悪用してさらなるノイズをまき散らす筋も闊歩するようになっているのだろうな。
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