「感情論だから論理は吹き飛ばして主張しても良い」はすべてのワガママを正当化する魔法のことば

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これは似たような話を何度か以前にした記憶もあるのだけど。人は動物と違って意思疎通が多分に出来、その意思を記録保全し、さらに多彩な感情を持つ生物に他ならない。論理的には間違っていると分かっていても、自分のこれまでに築いてきた経験や心境、知識、そして生まれついて有している性質などの合成ベクトルで発現される感情が優先し、物事の判断を下してしまうことがある。結局のところそれもまた、どれだけ感情に優先的なパラメータを割り振るかいなかという、数量上の駆け引きでしかないのだけど。

マーケティングとか広告論とか、群集心理に係わる方面では、この感情論を多分に前提とした方がよいことがある。印象優先の広告展開とかが良い例。人の性(さが)を巧みに利用した感じ。

他方、その感情論を振るいかざしてワガママを成すと、それがオールマイティカード的なものとなってしまう。例えば兄弟二人で「同じように分けなさい」と親から言われたケーキを半分ずつ分ける際に、兄がさっきケンカした弟をにくいと思い、切り分け方を1/10と9/10にして弟に1/10の方を与えたら、誰が見ても不平等で非論理的でワガママでしかない。けれど「感情論が優先する」と主張したら、それがOKになる。

感情論は得てして非論理的で非合理的で不平等で非人間的ですらある。何しろ「感情論」という物差しはその語り手のワガママ、思うがままがすべての軸なのだから、他のいかなる法則も無視できる。先のケーキの話なら、自分が図る時だけ1/2が9/10になる定規を使うようなものだ(相手が図る時だけ1/2が1/10でもいい)。そこに合理性は無く、他人を説得・納得させるだけの正当性は無い。そのような論でやりたい放題やられれば、影響を受けた側は理不尽さしか覚えない。

第一、「感情論だから論理を無視して良い」がオッケーだとすれば、「その感情論が気に食わない感情を自分は有したので、あなたの感情論は否定しますね」も通ってしまう。何しろ判断基準に共通性がないのだから。そこには論議も何もなく、単なる殴り合いしか残らない。これほど不毛な事は無い。

個人的には「感情論が」的な切り口で何らかの意見や反論が来た場合、その時点で相手に論議なり正当性の主張をする気概はまったくなく、自分の我を通したいだけなので、耳を傾けるだけリソースの無駄だという判断を下す事が多い。感情論の存在は認識しているけれど、それを振り回して殴りかかってくる蛮族には、文化人の言葉は通じないからね。

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このページは、不破雷蔵が2016年5月26日 07:30に書いた記事です。

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