「試験一発勝負は勉強しかできないガリ勉を生んでしまった、人物を総合的にみて合否を決めるべき」という聞こえのよいコンセプトは、ひろく賛意を呼んだりしてしまっているのだけど、実際のところ、5分や10分そこらの面接であらわになる人物評価って何かというと、すなわち「育ち」なんだよね。
— terrakei (@terrakei07) 2016年5月29日
知ってほしいものだね。高校1~3年の課題だけで合否が決まることは、貧乏人にとってはとても有利なのだと。出生から少なくとも18歳までの人生を評価されることになる「人物重視」より、よっぽどマシなのだと。
— terrakei (@terrakei07) 2016年5月29日
受験における点数の良し悪しだけで合否を決めると、その時にたまたま調子が悪かったり苦手な部分が対象だったりした時に、実力に見合った点数を得られなくなるとか、一発勝負で人生が決まるのは良くないとか、点数さえ稼げれば良いとする主義主張が蔓延するという話は、定期的に沸き上がってくる。そのたびに総合評価のために、例えば内申書を重視すべきだとか一発芸的なものを採用すべきとか、面接に重きを置くべきだとかという話が出てくる。最近話題のAO入試なんてのもその一つ。
それも一つの考えとしてはありなのだろうけど、今件引用の指摘もまた、十分に説得力のある話に違いなく。そりゃ確かに学力そのものも資材や周辺環境で影響を受けることはあるけれど、「育ち」「人物重視」と比べればどれだけその要素は大きいだろうか。また「試験は付け焼刃で云々」ってのもあるけど、それは「人物重視」に影響を与えるからとボランティアに足を運ぶ行為とどれほどの違いがあるのかな、と。受験による点数はしっかりと基準が存在するけれど、「人物重視」ってのはそれよりもあやふや。評価チャートにおけるチェックにしても、面接官の好き嫌いがどこまで影響するか。内申書にしても、それをつけた教師の正当性がどこまで担保されているのか。
そう、『本人の個性』じゃなくて育ち、つまり『親がカネと手間をどうやってかけてこの人の人格を作ってきたか』が評価されるんだよね。
— KGN (@KGN_works) 2016年5月30日
評価されるのは、本人じゃ無くてそれまでかけられたカネと手間。
穿った見方をするなら、この「ガリ勉は悪!人物で評価しろ!!」と旗を振った人たちがどんな集団か?てのも考えた方が良いんだよね。
— KGN (@KGN_works) 2016年5月30日
彼らが『安定した社会』を望むなら、社会階層の固定化したほうが良いよね。のし上がる貧乏人は未知だし邪魔。https://t.co/QNWiHgBBY8
「自分と、自分の仲間」がもちゃっと固まって余所からの擾乱を受けず、『オピニオンリーダー』であり続けられる社会を作るなら、社会階層を固定化しておいた方が楽、という頭がどこかにありはしないかな?という事ね。
— KGN (@KGN_works) 2016年5月30日
一発勝負で逆転できる社会を望まない人もいるから。
ゆとり世代直前までだとまだ「お金を賭けて塾や習い事にみっちり通った、親も高学歴で裕福な家庭の秀才」が「田舎で公教育を受けただけの天才」にあっさり追い抜かれる、という事態がしばしばあったからねえ...
— KGN (@KGN_works) 2016年5月30日
追い抜かれたくない人が打つ手としては「危険な芽を潰しておく」があるよ。
で、社会階層の固定化には『お金をかけないと(高等)教育が受けられない』という方法は非常に優れてたわけ。そこひっくり返したのが公教育。
— KGN (@KGN_works) 2016年5月30日
公教育で教えた事を身につけてるか、という評価だけにとどめて他の事は問わないようにしないと、社会階層が固定化される危険がある。
本来ならば「本人の個性」が精査されるべきなのだけど、人間は神様ではないから、どうしても指摘されている通り、本人を形成した環境が、リソースが評価されてしまう。そして指摘がかなり鋭くてぞくっとしたのだけど、「人物で評価しろと主張する勢派がどのような人達か」というのは、雰囲気的に「脱成長を語る富裕高齢層」と近しいベクトルを有している感は否めない。現状の固定化による自己の足場固め。
そこまで思いが巡ると、ああなるほどなというところもあったりする次第ではある。
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