評論家は昔も今も変わらない、変わったのは周辺環境

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「あの評論家の語りって、結局、居酒屋でくだ巻いてるおじさんと大した変わりはない」という表現は何度か使ったことがあるのだけど、やはり考えているのは当方だけでは無かったのだなあという話。評論家のすべてがすべてではないのだけど、指摘の通り一方向メディアではなく双方向メディアによる情報露出の環境ができあがってから、容易にツッコミができるようになったため、権威やら何やらがぼろぼろと剥がれ落ちてしまった。......というよりは、一部界隈での化けの皮がはがれた感。

世の中には完璧なものなどないのだから、そりゃミスやら思い違いやらはある。けれどそれが継続するものであったり、同じ発想で繰り返されている場合、イレギュラーではなくもとよりそのレベルだったのでは、という判断がなされてしまう。

評論とは(中略)、その道の専門家が、専門知識なしには気がつかない事を、一般の人に分かり易くひもとく事なんだ

評論に限らず、報道の類も突き詰めればこの理念が軸となる。

指摘の通り「評論家」と呼ばれる界隈にはピンからキリまであって、さらに評論家っぽい何か別のものも山ほどいて、それが双方向化によって「評論家」の被り物が吹き飛ばされ、さらにだれがピンで誰がキリであるかが分かるようになってきた、という感じなのかな。

ある意味、本物が見出される時代であり、だからこそ本物で無かった人たちがお騒ぎになっているのかもしれない。

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このページは、不破雷蔵が2016年6月 1日 07:44に書いた記事です。

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