製作側の意図や演出で映像記録的なものが見難いと感じた時のスマートな対処法

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これは発想の転換的な手法として、目にした時に「その発想は無かったわ」と感心させられた話。先日放送された歴史ドキュメンタリー番組が良い例ではあるのだけど、ニュース番組やそれに連なるニュース解説系のテレビ番組では少なからず、演出という名の製作側の意図が混じることがある。

製作工程で人が介在するのだから、その人の意図がどうしても混入してしまうのは仕方がない。しかしその「仕方がない」と「意図が強すぎて本来知りたかった事実、情報の元々の姿がぶれて受け取ってしまう」との境い目、グレーゾーン的な部分が随分と曖昧になり、限りなくクロに近いグレー的なものが見受けられるのは否定しない。

ナレーションそのものは普通の説明のテキスト。でも口調が悪ぶれていたりトーンを落としていたり。BGMがいかにも悪そうなものだったり。印象的な面での洗脳......というと表現が少々アレだけど、まさにそんな感じの手法が「演出」という名で成されている。


これは以前【BGMという演出と表現したいものと】でも紹介した映像。セリフ回しや画像そのものはまったく変わりないのに、BGMで受け止められ方が随分と違ってしまう。見方を変えれば、BGMの差し換えだけでも、視聴者への印象をがらりと変えることが可能となる。ただ、正しい情報が欲しい人にとっては、それらは単なるノイズでしかない。

そのような場合には音声をオフにする。ナレーションやBGMはばっさりと切られる。以前なら映像だけでの閲覧となったのだけど、最近では字幕が表示される番組が多くなったため、内容を十分に把握できる。これは賢い手法。

もちろん、字幕、テキスト自身にも製作者側の意図、方向性が多分に見えることもある。しかしBGMや声のトーンといった、具体的には表現しがたいニュアンスでのかじ取りに惑わされることは無くなる。機会があれば一度やってみることをお薦めするよ。

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このページは、不破雷蔵が2016年6月 6日 06:34に書いた記事です。

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