苦手な作品と出会った時。「自分はこのテのものは苦手らしい」と気づいて距離を置くのが、自己防衛。「こういうものが好きな人もいるんだな」と認めるのが、懐の広さ。「自分を不愉快にした!許せん!」と殴りに行けば、暴力。「みんなが不愉快です!」とみんなを持ち出すのが、正義の味方気取り。
— 生田美和 (@shodamiwa) 2016年5月23日
この話、実のところ数年前からネット通販のコメント周りで国内外を問わず色々と論議されてきた問題ではある。人間ってのはモノサシで図ることは難しいのだけど、どちらかというとネガティブな感情の方が強く出がちで、外部にも披露したくなるもの。恐らくは生存本能が多分に作用しているのだろう。「危ない、危険だ、近寄るな」的な警告と同じ。ネット通販のコメントで「この商品はこの部分が欠陥だ、よくない」的な話が多いのも、そう考えれば納得ができる。
ただそれが単純に性能の良し悪しとか決められた水準の確保が出来ていないとか(100粒入りとあるのに80粒しか入ってなかったとか)いうのならまだしも、個々の経験則や好き嫌い、元々の性質で判断されるレベルのものなら、ネガティブな反応を示した対象に、どのような表現をすべきかってのは、多様な問題となる。
披露する場所にもよるのだろうけどね。ソーシャルメディアの場合、「自分の個人の感想」とすれば良いという話もあるけれど、それは同時に不特定多数への披露でもあることを忘れちゃいけない。さらに創り手側に直接意見具申的なものをした場合、どのような状況になるのかをしっかりと想定する必要がある。自分にとって気に食わない絵を見かけた時に、「自分はこの絵が嫌いだ、気に食わない、何とかしろ」と相手のアカウントにメールをしたり直接コメントするってのは、当人の自宅のポストに「お前の絵は嫌いだ」と書いた手紙を投函するのと同じ行為だってのを認識すべき。
ネット界隈の行動はそのアクションのハードルが低い事もあり、実際にどのような作用が生じているのかを認識し忘れてしまう。けどそのアクションを実行動でした場合はどのようなものになるのか、それを想像した方が良い。
あまり楽しめなかったら、何か楽しめたところを探して挙げる。一切楽しめなかったら黙る。「クソつまんねえからやめとけ」で実際やめられてしまったら何も生まれないけれど、「こういうところがよかった」からは、ファンや将来の名作や名クリエイターや名批評が生まれるかもしれない。
— 葛葉(レオポン?推し) (@Cuznoha) 2016年6月8日
世の中ポジティブシンキング、よかった探しをした方が、良い方向に転ぶ事は多々ある。もちろん100%ではないけれど。その一方で、ネガティブの方が力は強く、発散したくなることも多い。楽しめなかった行為に関しては、つまらないという結果そのものだけでなく、つまらないことに余計な時間を費やしてしまったという点でも、自分が傷ついた的な感傷を持ってしまうのでなおさらかもしれない。あるいは善意で、注意喚起の意味で、周囲に語る意味もあるのだろう。
いずれにせよ、人の一生は限られているし、投入できる時間もリソースも限定。何に割り振るのがより良い、効果的な、自分自身にプラスとなってリターンが来る可能性が高くなるのかを考えれば、良いところを探した方が、無ければ無いで打ち捨てるのみにした方が、色々と自分周りの流れも良いものとなるのかもしれないな。
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