「メディアスクラムはダメ」は忘れられたお話なのかな

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当方自身は芸能方面にはとんと疎くて興味もさほどないのだけど、それでも昨今の伝えられ方を見るに、色々と考えさせられるものがある。医学の進歩で相対的に治療・予防法が立ち遅れ気味となるがんに関する話が増えているのも、ネタとなりやすい一因ではあるのだろうけど、そして相手が「いじりやすい」ってのもあるのだろうけど、デリカシーというか、常識を超えたやりとりが目に留まる。以前言及した記憶もあるけれど、対象をモノ扱いしている以上の雰囲気が無い。


今件のがんの話に限らず、都知事の件とか加藤氏の件も合わせ、いわゆるメディアスクラム、「視聴者様が欲しているのだから無制限のやりたい放題免罪符をゲットしているのだぞ」的な傾向が強すぎる。一言でいえばゲスい。

「視聴率が稼げる」「購買数が増える」「記者としての名が売れる」が本音であるにも関わらず、それを「視聴者が、読者が望んでいるから」にすり替え、大義名分としてしまっている。視聴率が稼げるのが確かだとしても、それが唯一の選択肢ではない以上、視聴者が望んでいるから仕方なくとの説明は通らない。


昔と比べるとメディアに携わる人の質が落ちている(あるいは元々その程度の質だったのが暴露されやすくなっている)、メディアの多様化で従来型メディアへの需要が減退しているので焦りを覚えているってのはあるのだろうけど、少なくとも新聞界隈ではメディアスクラムに関して【「メディアスクラム」に関する日本新聞協会編集委員会の見解(12年前)】にもある通り「やっちゃダメだよ」と自主規制的なものを設けているし、他の従来型メディアも似たようなものではあるはずなんだけど。上記に挙げた事案はいずれも、メディアスクラムそのものだと指摘されても否定できないレベルに違いなく。

そのような「メディアの暴力」を見ていて心苦しい、苛立たしさを覚えるのは、自分にいつ同じような刃を向けられるか分からないこと、傍若無人な専制君主的ふるまいをしている界隈によって理不尽な被害を受けている様相が伝えられていること、そして何よりもその行為を「視聴者が求めているから」と責任転嫁されているから。好き勝手なことをして、自らの懐を潤わせ、責任は視聴者・読者に放り投げ。むしろその行為こそが正義であり使命であるとしている。「何勝手なことを言ってるのか」という感はある。

以前このような「メディアの暴力」への対抗手段の一つとして、【報道される側の一次情報公開のススメ】を挙げた。ただこれは事実をよじ曲げる報道界隈への対抗手段で、今件のようなメディアスクラムには使えない。

あるいは今件のように、一定の情報発信力、知名度がある人ならば、自らの状況を逆に利用して、メディアスクラムに対抗するという手も考えられる。「私も情報を発信します」とばかりに、雲霞の如く現れる、好ましくない取材陣にカメラを向けて、その実情を情報として発信する。記者界隈は自らの素性を露呈されるのは、一般の人以上に嫌う傾向があるからね。何か文句を言われたら「あなた方と同じことをしているだけです」で説明は終わる。

先日の【取材する 側も今では されもする】と発想は同じ。要は、今まで叩かれる一方だった取材対象も、「取材報道」という反撃する手段を得たというわけだね。そしてそれは最低限、スマホとソーシャルメディアのアカウントがあれば可能となる。この手法、覚えておいて損は無いと思うよ。

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このページは、不破雷蔵が2016年6月11日 08:00に書いた記事です。

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